あなたは朝ドラにエールを送れますか ?
はじめに
『エール』は朝ドラ史上無いほどの,過酷な状況で制作されたドラマとなりました。脚本家さんの降板,重要な出演者の急逝,新型コロナによる収録中断,そして放送休止……。収録が再開してからも,新型コロナの感染拡大に配慮しながらの制作,さらに主要人物を失った上での物語進行とあっては,予定変更を余儀なくされた部分が沢山あったことでしょう。
このような中で半年クール分のドラマを作り続け,魅せ続けてくださった出演者・制作スタッフの皆様には,朝ドラ枠のファンとしてただただ感謝の気持ちでいっぱいです。
長期間,本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。
とはいえ。
「過酷な中で頑張って制作してくださったんだから,物語として変だったところも全部大目に見ましょう ! 反省は一切無しで ! 」と視聴者が言ってしまうのは,日本を代表する企業のエンターテインメント創作物であるこの作品に対して,少々不誠実な態度なのではないかと思います。
新型コロナによって描けない部分が出てしまった……ということを差し引いても,Twitter等では今年も賛否がはっきり分かれていました。
出演者ならびに制作スタッフの皆様が頑張ってくださった部分とは全く別軸に,「『エール』において賛否が分かれたポイントは何だったのか。それは何故か」を整理しておくことが,これから更に朝ドラを楽しんでいくことに繋がると筆者は考えます。
というわけで今年も考えてみます。
『エール』で賛否が分かれたのは何故だったのでしょうか ?
本稿では,
●現在のAKとBKの特性の違い
●朝ドラの「型」だと「みんな」が思っているものは何か
ということを,明らかにした上で
●『エール』の何が賛否を分けたのか
を「みんな」が朝ドラの「型」だと思っているものをキーにして,考えていきたいと思います。
(最後の注釈コーナーで,本文に入りきらなかった内容をちょびっとおしゃべりもしておりますので,もしよろしければそちらもお楽しみください)
- はじめに
- 現在のAKとBKの特性の違い
- 朝ドラの「型」だと「みんな」が思っているものは何か
- 『エール』の何が賛否を分けたのか ? ~朝ドラの「型」だと考えられるものをふまえて~
- おわりに~あなたは朝ドラにエールを送れますか ? ~
現在のAKとBKの特性の違い
ここ数年は(もっと言うと2015年の『まれ』以降は)制作担当がAK(東京局)か,BK(大阪局)かによって,惹きつけるファン層が異なる傾向があります。特に2018年の『半分、青い。』以降は,Twitter上の感想グループを見ると,「主にAKの朝ドラを面白く感じる人」と「主にBKの朝ドラを面白く感じる人」がほぼ一貫して分かれていることがうかがえます。
NHK放送文化研究所(以下NHK文研)では,2017年度前期の『ひよっこ』と後期の『わろてんか』において
★「全体のストーリー展開や,結末がどうなるかを楽しみたい」に近い見方をした人…「長期視点派」
★「日々のエピソードや,作品の雰囲気・登場人物を楽しみたい」に近い見方をした人…「短期視点派」
★どちらとも言えない見方をした人…「中間派」
として分析しています。
【視聴者は朝ドラ『ひよっこ』をどう見たか~柔軟に見方を変えて楽しむ視聴者~】
【視聴者は朝ドラ『わろてんか』をどう見たか~過半数の"まあ満足派"が支えた評価】
これらの視点は,個人ごとに固定されたものではなく,全ての人の中にどちらもあり,本来は,柔軟に変えられる性質のものです。
ただ,現在のAKとBKは(企画書などで明確に意図されたものかどうかまでは一視聴者である筆者には分かりかねますが)「長期視点派」と「短期視点派」のどちらに視聴ターゲットを寄せるかが違っているのではないか,と考えます。
例えば,映像コンテンツの筋立てとは基本的に下記のような構成で制作されます。ここでは『シナリオライティングの黄金則』という本から図をお借ります。*1*2
この基本構成はAKとBKの朝ドラにおいても共通するものだと筆者は考えます。しかし,力を入れて描写している部分が異なると感じています。
昨年の記事でもふれたことをもう少し整理して述べます。
【AK:「短期視点派」に向けた『インスタ型』】
半年間を貫く,大きな物語(メインストーリー)よりも,各イベントごとの見せ場を重視していく方式です。
独立イベントの盛り上がりの繰り返しに力点があるため,何週間か視聴を逃したとしても,また新しいイベントの「起」から入れば楽しむことができる軽さが最大の長所です。感動するポイントが各イベントごとに明確に作られており,はるか何週も前の細かい描写を覚えていなくても,「今日,いまの瞬間」にきっちり感動させてくれる安心感があります。「短期視点派」の視聴者に非常に向いている作り方です。
また,登場人物の行動や物語の展開に一貫した根拠を求めず,「なんでそうなったかわからない」ことが起こること自体を楽しむあり方は,そもそもコメディドラマやコントのあり方でもあります。
ですが,それらの独立イベントにおいて見られるきらめき……例えば,俳優さんの素晴らしい演技,登場人物の愛くるしさ,面白い小ネタや素敵な小道具,美しい風景……それらは全て,「全体を貫く大きな物語(メインストーリー)が破綻せず,説得力を持って進行しているか」とは,別軸のものです。*3
むしろ,イベントにおける「見せ場」を盛り込めば盛り込むほど,「全体を貫く大きな物語」を収束させる難易度は上がります。
さらに,独立イベントが強いために,「全体を貫く大きな物語」は飛び飛びの展開になってしまい,作者が「全体を貫く大きな物語」を通して「本来伝えたかったこと」が弱くなります。全体を通して見たときに「なぜそのように展開したのか」の説得力が不足するため,それらの「繋ぎ方」に別解の余地が出てしまうことすらあります。
「全体を貫く大きな物語がなぜそのような展開をするのか」を重視して視聴している「長期視点派」の視聴者は,ここで批判せざるを得なくなってしまうのです。
Twitterでは,この層を「AKアンチ」と呼び,「アンチは何をやっても批判する」などと揶揄する向きもあります。
しかし,「長期視点派」の視聴者は,「全体を貫く大きな物語」の展開の説得力要素となる,時代考証に基づいた細部描写,各イベントの整合性,世界観の一貫性(演出の一貫性),主人公の人格設定の一貫性……などを重視して視聴しています。そのため,「短期視点派に向けた,各イベントの見せ場に力を入れている連続ドラマ」では,話が進めば進むほど「ありとあらゆる場面が,以前の内容との整合性を考えるとダメ場面にしか見えなくなるターン」が必ず来てしまい,称賛したくても称賛できないのです。*4
【BK:「長期視点派」に向けた『小説型』】
「短期視点派」に向けた『インスタ型』に対し,大きな物語の繋がり重視するのが「長期視点派」に向けた『小説型』です。『ゲゲゲの女房』で放送枠変更からの大改革を試みて以降のここ10年で,ライトな「朝ドラ」の呼び名が定着しましたが*5 , そもそもは「連続テレビ小説」として企画された,新聞小説を意識した,ラジオドラマに近い形態のドラマです。『小説型』の方がよりそちらの流れを汲んでいると言えるかもしれません。
『小説型』の朝ドラは,各イベントの「見せ場」の華やかさよりも「大きな物語がなぜそう展開するのか」の文脈の描写に力点があります。毎日見逃さず,積み重ねて観ることで説得力が増し,更に面白くなる仕掛けが沢山仕込まれています。
ですが,超ロングパスの伏線などが仕込まれているため,序盤では「今日のイベントがこれからどこに繋がるのか全くわからない回」が必ずあります。それが回収される数週間後,下手すると半年後をじっくり待って,観続けなければなりません。「なんだかよくわからないなあ」と思って序盤で一度視聴を離脱すると,中盤以降で視聴に戻って来た時には更に話がわからなくなってしまう,という短所があります。「長期視点派」は序盤の「なんだかよくわからないなあ」が終盤の「なるほど ! ここに繋がったのか !」になることを楽しみに待つことができますが,「短期視点派」はここで脱落してしまいます。
また,物語を破綻なく語ることを重視した結果,各イベントの視覚的な盛り上がりに欠けてしまうこともあります。「BK制作は地味。だから,朝から見ていて楽しくない」という感想を『まんぷく』でも『スカーレット』でも見かけましたが,それは大きな物語の進行に力点を置いたために生じたことだったのではないかと考えます。
『エール』は「短期視点派」に向けた『インスタ型』の傾向を持つ作品です。
昨年の『なつぞら』の時などは
AK派「観る者の心を揺さぶる伝説のアニメーターの魂が描かれてるだろ ! 重箱の隅つつくな ! 感じろ !」
BK派「時代考証も細部描写も揃ってないのに魂の何が描けるってんだ ! 表層しか見てない ! 考察しろ ! 」
というような言い合いをTwitter上でよく見かけましたが,今年も同様のことが起こっていました。
しかし,作品の特性を見れば,両者の主張はどちらも正しいのです。
さて,「え,別に,AKとかBKとか関係なく,どちらも楽しく朝ドラ観ることができちゃってますけど…」という視聴者も沢山います。
NHK文研さんの言葉を借りるならば「作品ごとに柔軟に視聴スタイルを変える」「中間派」の視聴者で,両方楽しめているかたがたなのだと思います。
俳優さんの演技,登場人物の面白さ,小ネタや小道具,美しい風景など,「今日の場面」に感動させてもらえたことを毎回素直に受け止める「短期視点派」のスタイルと,「なんだか物語の筋がよくわからない」期間もじっくり待って,積み重なっていく文脈を読んで終盤の伏線回収の「スッキリ ! 」を味わう「長期視点派」のスタイルとを,作品ごとに切り替えて観ているのです。
「長期視点」と「短期視点」自体は,全ての人の中にどちらもあるものです。
とはいえ,「長期視点派」スタイルの強い人が「一貫性や整合性を気にせず,毎日新しい気持ちで楽しもう ! 」と切り替えるのも,「短期視点派」スタイルの強い人が「なんだか全然パッとしない日が続くけど我慢して観続けよう」と切り替えるのも,容易なことではありません。視聴スタイルとは,その人の価値観や人間観……これまでの人生で培ってきた「ものの見方」が凝縮されたものだからです。
「朝ドラはこっちの視点で観よう」と自分の中で無意識に固定している場合もあるかもしれません。
そのような様々な要因から,「その人がどのような視聴スタイルで朝ドラを観ているか」つまり,何を重視して朝ドラを楽しんでいるか,ということとの相性がどうしても出ます。それが今の朝ドラでは,「AK派・BK派」に分かれやすくなっているのです。*6
どの作品でも「各イベント」と「全体を貫く大きな物語」とのバランスが良い,という状態が,長年朝ドラを見続けているファンからすると理想的かもしれません。
しかし,コアな朝ドラ視聴者層の高齢化が進み*7,様々なインターネット配信の番組を沢山選んで観ることのできる今,より多種多様な視聴者にリーチし,朝ドラをとにかく観てもらおうと考えると,AKとBKで別方針で色々と模索してみるのがベストなのだと思います。
朝ドラの「型」だと「みんな」が思っているものは何か
朝ドラとは実は各作品でかなり行き当たりばったりに作られているもので,各プロデューサーの方針で決まるものだと,複数の制作スタッフさんが述べておられます。*8
実際に,朝の「連続テレビ小説」の形は,その長い歴史の中で何度も変化しています。*9
『「朝ドラ」一人勝ちの法則』の表紙帯では,朝ドラのメソッドを端的に「無駄に前向き」「故郷を捨てる」「戦争が物語を作る」と示していますが*10,例えば『ひよっこ』はそれらを全く使わない作品です。*11
かつてのNHKドラマ部内では「前向きヒロイン」「群像劇はダメ」「大きな物語にする」「不倫は絶対ダメ」「ヒロインが死ぬのもダメ」「芸能界の裏話はダメ」「片仮名タイトルはダメ」などの「朝ドラ勝利の方程式」が共有されていたそうですが*12,それも今の朝ドラでは殆ど打ち破り済みであることが,この10年ほどの朝ドラをご覧になっているかたならばピンと来るのではないかと思います(打ち破ってるのはだいたい『あまちゃん』と『カーネーション』ですね……)。
しかしそれでも,視聴者は「長期視点派」「短期視点派」「中間派」関係なく,それどころか朝ドラをよく観ていない人ですらも漠然と「朝ドラはこういうものだ」という型を感じています。
一方で,『エール』のドラマガイドPart1*13では,チーフ演出の吉田照幸氏が「誰も見たことがないドラマの表現に懸命にチャレンジ」したいとおっしゃっていました。実際『エール』には「今までの朝ドラで見たことがない」場面が沢山ありました。
朝ドラの「型」だと視聴者「みんな」が思っているものは何なのでしょうか。
本稿では,Twitter上で朝ドラの感想を述べる各タグを追った中で,賛否が分かれていたポイントを4つにまとめてみました。そこから,「みんな」が朝ドラの「型」をどのように感じているのかを,視聴者目線で考えていきたいと思います。
1.その作品は,「みんな」の生活のポジティブなペースメーカーとなっているか ?
朝ドラはその枠の性格から,視聴者の生活と切り離すことのできないものです。かつては家事に忙しい主婦をメイン視聴者として想定しており,橋田壽賀子先生が『おしん』を執筆する際に,家事をしながら,画面を見なくても聞いてわかる台詞回しに留意したことは,朝ドラファンにはよく知られたエピソードです。
共働き世帯の数が増えた現代でもその「機能」は変わらず,「朝ドラが終わったら家を出る」「朝ドラの時間内に化粧をする」など,朝ドラをペースメーカーとして「習慣視聴」している人は依然少なくありません。
そのため,「朝,明るい気持ちで送り出されたい」「化粧しながら見ているから,泣くような展開は嬉しくない」などの要望が出ます。
また,「強制視聴」とでも呼ぶべき視聴者層もいます。飲食店や公共交通機関の待合室,病院や介護施設の共有スペース,家のリビングなどで必ずかかっているため,好き嫌いにかかわらず必ず朝ドラが目に入る,という視聴者です。闘病中の患者さんが観ていることもあるそうです。*14
そうなると当然,「朝や昼休みに自然と目に入ってしまうものなのに,血みどろの映像やメロドラマは見たくない」「観るたびに気持ちが明るくなるものにしてほしい」という要望が出ます。
戦後しばらくは「戦争映像はつらいから出さないでくれ」という要望が多く,戦争映像を出すことができなかったそうですが*15,この「つらいから出さないで」は単なる個人の好みによる要望ではなく,戦争体験者のPTSDにも関わる要望だったのではないでしょうか。
ちなみに,戦争体験者が高齢化し朝ドラ視聴から離れていった今でも,戦争表現は観たくないとアンケートに答える人の方が多いです。*16
さらには,「朝ドラが周りの人との話題になるから観ている」という視聴者がいます。職場などで「朝ドラ」はコミュニケーションのネタとなっていたのです。『あまちゃん』がSNSを中心に社会現象となり,「SNSで朝ドラの感想を言って誰かと繋がる」というスタイルが定着して以降は,SNSも朝ドラを介したコミュニケーションの舞台となっています。
【一の型】朝ドラは,視聴者の生活を明るく支える「機能」と「効用」を持っていてほしい。(しかし,どんな「機能」と「効用」を望むかは視聴者それぞれの状況や立場で違うので,議論になる)
2.その作品を,「朝の大河ドラマ」と捉えるか否か ?
朝ドラで実在の人物を取り上げ,史実を取り扱う時,「『作り話』をするのをどこまで許し,どこからが許せないか」の判定が個人個人で違い,議論を呼びます。
例えば,同じ「徳川吉宗」を取り上げていても,大河ドラマ『八代将軍吉宗』として楽しみたい人と,『暴れん坊将軍』として楽しみたい人では,フィクションの許容範囲が全く違ってくるでしょう。
朝ドラは,「テレビ番組が昔のような高視聴率が取れなくなった現代でも,視聴率20%をコンスタントにとれる,公共放送の看板ドラマ」です。
「だから,虚実の境界や史実の改変も,単なる面白至上主義に基づくものではなく,社会的影響をきちんと考えて,守るべきラインを持っていて欲しい」と考える人は,朝ドラを,大河ドラマ『八代将軍吉宗』のように捉えている人です。
一方で「沢山の視聴者が『作り話』だと了解して,朝を明るくしてほしいと思って観ているのだから,実在の人物や史実は原案程度に考え,どんどん創作してほしい」と考える人は,朝ドラを,『暴れん坊将軍』のように捉えている人です。
そのような視聴者の多様さを反映してなのか,朝ドラにおいて史実とどのぐらいの距離をとるかの方針は,制作チームの考え方に一任されており,それにより作品ごとに史実との距離にブレが出ています。
とはいえ,史実を扱うときに絶対に史実を歪めてはいけない箇所はあります。
それは,人の死や痛み,苦しみに関わる部分です。差別,戦争,災害,政治制度やその時代特有の規範などを変更すると「なぜその人がその時代につらい思いをしたのか」を誠実に描くことができなくなり,大きな物語の説得力が無くなります。
また,人の死や痛み,苦しみに関わる部分でなくても,脚色がモデルとなった方にご迷惑をかけることもあります。
1997年度前期AK制作の『あぐり』の時には,主人公あぐりの一番弟子のモデルとなったかたが,「実際は普通に弟子入りしたのに,ドラマでは家出娘になっていて,テレビの前でびっくりしてしまった」「そうとは知らず,友人知人に,自分が出るから見てねと気軽に言ってしまったので,あれは作り話だと訂正するのが大変だった」とインタビューに答えておられました。
笑い話にしてはおられましたが,「女性は貞淑であるべきだ」という意識が強い時代に育ったかたが家出娘にされてしまうのは,不名誉なことだったのです。*17
朝ドラで取り上げる実在の人物は,モデルとなったかたやそのご家族が,現在もお元気で活躍されていることも少なくありません。実在の人物を取り上げ,「作り話」と「史実」の境界を曖昧にした描き方をしてしまうということは,モデルとなったかたやそのご家族に迷惑をかけたり,名誉を傷つけたりする可能性があるということです。
「作り話だってみんなわかってるんだから何やってもいいでしょ。誰も困らないんだし」に絶対にならない箇所はあるのです。
【二の型】朝ドラは,「史実」との間に適切な距離を持っていてほしい。(だが「史実」との距離をどのようにするかは,朝ドラ枠全体として決まっているわけではため,制作者や視聴者ごとに基準が大きく異なり,議論になる)
3.その作品は,現代人が抱えている課題に真摯に向き合っているか ?
第6作『おはなはん』以降,朝ドラは女の一代記という路線を強く保ってきました。*18それは,当時の専業主婦の「もっと頑張って社会に出たかった」「もっと自立したかった」という願いを掬い上げたものだったそうです。*19この路線で制作された作品の一つの頂点が第31作『おしん』で,橋田壽賀子先生がこの作品を「日本のお母さんたちへの鎮魂歌」と語っているのはとても有名な話です。*20
一方で,『ロマンス』,『走らんか!』のように男性の成長物語を描くこともあれば,『君の名は』のように既存の物語を改変してまで「すれ違いながら向き合おうとする2人」を描いた作品,『青春家族』『てるてる家族』のように「家族のありかた」に取り組んだ作品,『私の青空』のようにシビアな現実の中で懸命に生きるシングルマザーに焦点を当てた作品もあります。
しかしどの作品にも言えることは,単なる面白主義ではなく,その時代時代で,誰かが抱えている「痛み」「悩み」「願い」をドラマの課題として掬い上げようとしていることです。
主人公に感情移入してもしなくても,視聴した後でちょっとスッキリした気持ちで日常に戻れるような役割を,朝ドラはこれまでずっと果たしてきましたし,今もなおその役割を求められていると筆者は考えます。
朝ドラの明るさは,単に「愉快な人たちが賑やかに楽しく過ごしている」ということにとどまらず,現代人が人生の中で「課題」として抱えていることをきちんと取り上げ,真摯に向き合っていることからも生じているのです。
近年は,偉業を成し遂げた著名な人ではなく,一般人として生活している人を主人公に取り上げようという方向性があります。それもまた,今までならばドラマの主人公にふさわしくないとされてしまっていた「誰か」が抱えている「痛み」「悩み」「願い」を掬い上げようとしているからなのだと思います。
2019年に行われたNHK文研のシンポジウムでは「マイノリティーが主人公の朝ドラ」や「男性の生きづらさを描いた朝ドラ」などを期待する声が上がっていました。*21
【三の型】朝ドラは,現代人が人生の中で「課題」として抱えていることを取り上げ,真摯に向き合ってほしい。(しかし,どのような向き合い方をもって真摯だと感じるかは視聴者それぞれ違うので,議論になる)
4.その作品は,これまでの朝ドラ作品をふまえて描かれた作品であるか ?
NHK朝ドラ研の資料によれば,「どの作品がスタンダードな朝ドラか」を質問すると,ある一定年齢層までは『おしん』がスタンダードだと感じている人が多いのに対し,それより上の年齢層になると『おしん』はスタンダードな朝ドラではないと答えるそうです。
また,若い世代では『半分、青い。』がスタンダードだと答える人も多いそうです。
「その人にとって印象深かった朝ドラ」が,視聴者一人一人の心の中で「朝ドラの型」となっているようです。*22
ではその「印象深さ」はどこから来るのでしょうか。
私は,物語の「語り方」から来るものではないかと考えます。
朝ドラに厳密なフォーマットはありませんが,どのような登場人物が配置され,どのような試練が起こるのか,どのような舞台を使うのか……は大まかに決まっています。*23
その決まりごとをおさえた上で,制作チームが「何を一番に大切にしたら,視聴者の楽しい朝の時間を作れるか」を検討し,題材の取り扱いや表現の取捨選択に苦心し,工夫した結果,その作品固有の「語り方」ができます。
視聴者の視聴スタイルとの相性の傾向で「AK」「BK」にざっくり分けることができるという話を前章でしましたが,さらにそこに,作品固有の「語り方」に対する「良し悪し」「好き嫌い」が掛け算されるのです。
「ここ数年のAKの作品は好きじゃないけど,『ひよっこ』は別。岡田先生の作品,大好き ! 」「『スカーレット』は個人的に好みの作品ではないが,とてもよくできたドラマだった」のような意見が出るのはそういうところからです。
つまり「これが新しい朝ドラの表現です ! 」と出すには,以前の作品で同様の題材がどのような「語り方」をなされていたか,をふまえる必要があるのです。そうでないと「その題材の描き方なら,〇〇の方が秀逸だった」「全然新しくないじゃん,それ,やったことがあるよ」と,視聴者それぞれの心の中にある「朝ドラ」から,厳しい指摘が来てしまいます。
「そういうことを言うのは,朝ドラを長年観ている視聴者でしょ ! その視点が小姑っぽいのよ !」というご意見については,全くその通りだなと,筆者も反省を込めて思います。
ただ,朝ドラには「都度都度消費される,娯楽ドラマ(単なるコンテンツ)」という側面だけではなく,「今までに蓄積されてきた表現や様式の意義をふまえて,より新しい表現を模索していく,伝統のあるドラマ(歴史に残る作品)」という側面があるのだということは日々感じます。(それが新しい挑戦の妨げとなることもあるでしょうが……)
【四の型】朝ドラは,これまでの朝ドラでの物語の「語り方」をふまえて,新しい「語り方」を模索してほしい。(しかし,何を新しい「語り方」と感じるかは,視聴者それぞれの朝ドラ歴や「語り方」の好みが関係してくるので,議論になる)
以上のことをふまえて,『エール』を見ていきましょう。
『エール』の何が賛否を分けたのか ? ~朝ドラの「型」だと考えられるものをふまえて~
【一の型】『エール』は,視聴者の生活を明るく支える「機能」と「効用」を持っていたか ?
『エール』は各イベント重視の構成,週ごとに誰が主役でどんな課題を抱えているかが明確で解決して完結する作り,コント仕立てで基本的に明るいノリを持っていました。それらは,仕事などで忙しい中でライトに観る人を対象とし,一度視聴離脱した人が戻って来る時のハードルを上げないやり方としては最適だったと思います。
視聴者の離脱の要因にもなりうる,直接的な戦場の描写を入れたことについても,「ポジティブな意見にしろネガティブな意見にしろ,SNSなどでみんなが話題に取り上げ,盛り上がる」という効用は果たせていました。
その意味では「新しい朝ドラ表現を行えた」と言えるでしょう。
……それが視聴者の生活を「明るく」支えることに繋がっていたかどうかは,個人個人の好みによるところが大きいですが……。
本当に良かったのかどうかについては,NHKがまとめる「月刊みなさまの声」(朝ドラ終了後に,寄せられた視聴者意見のまとめが出ます)*24とNHK文研の研究分析結果を待ちたいと思います。
【二の型】『エール』は,「史実」との間に適切な距離を持っていたか ?
当たり前と言えば当たり前のことなのかもしれませんが,NHKには,様々なトピックごとにまとまった時代考証用の書籍資料や膨大な映像資料があるそうです。例えば「昭和のバー」などを美術セットとして作る時には,十分に調べる体制が整っているとのこと。*25
しかし,『エール』においては,観ていて年代がわからなくなる,という意見がどのタグでも上がっていました。その当時には絶対に使われていない言葉が使われている,良くも悪くも昭和時代に蔓延していた価値観や常識が出てこないなどの状況が頻発していたからです。歴史的な事件に関わることついても様々な「引っかかり」が指摘されていました。インパールでの戦闘はあのような展開をしていない,慰問の裕一が前線に出るのは御都合主義すぎる改変ではないのか,裕而さんの作曲の苦悩を踏まえた裕一の制作プロセスとはならないのか,などなど…(筆者は,自分の実家が農地改革時に地主だった側なので,久志の「家屋敷まで国に取られて一家離散」のエピソードで「えー,違うよ!」と引っかかってしまいました)。
それら全てを「おはなし」としての『エール』のあり方はこれで良いのだ,むしろこれこそが新しい朝ドラだ ! と受け止められた視聴者は楽しめたでしょう。
しかし,批判した視聴者も,全く史実通りに描いて欲しいと思っているのではないでしょう。
全くの史実通りではドラマにする意味がありませんし,実際に起きたことをテレビサイズにするための「都合」が入ることも,ドラマファンであればよくわかっていることです。
史実を変えて「おはなし」を作るのはOKなのです。
しかしその際に,差別,戦争,災害,政治制度やその時代特有の規範などに関わる部分の改変には十分配慮し,実在の人物の名誉に関わるような部分には特に留意して,「おはなし」と「史実」の距離を守って欲しい……ということがまずあります。
制作側は「フィクションだと分かって見てるから大丈夫ですよね !」と,視聴者と合意がとれている前提だったのかもしれません。
ですが今のAK朝ドラでは,創作部分と史実部分がお互いに侵食しすぎてしまって境界があやふや,という状態になっています。
朝ドラは,実在の人物をモデルとする時に,「次の主役はこのかた ! こんな偉業を成し遂げたかっこいい人 ! みんな見てね ! 関連書籍やグッズも買ってね ! 」と,その人物の実績や権威,話題性を広告としてしっかり使います。しかし,実在の人物との関連を強くPRした割には「作り話なんで史実と違います ! 」と,偉業は出してもプロセスは描写しない,または,偉業自体を歪めてしまう……というようなバランスの悪さが生じた時にもまた,「史実との距離をきちんととってくれ」と言われてしまうのです。
先に述べた『インスタ型』の特性を鑑みれば,そうなってしまうのも無理のないことではあるのですが,「今年の朝ドラは,モデルとなった人はいるけど,基本的に『暴れん坊将軍』みたいなものなのね ! 了解 ! 」と視聴者(特に「長期視点派」の視聴者)により伝わるような工夫は必要なのだと思います。
『エール』の「おはなし」と「史実」との違いについては,作家・近現代史研究家の辻田真佐憲先生が丁寧な記事をずっと書き続けてくださっていました。
「おはなし」を補完して「史実」から切り離し,適切な距離をとる作業を,辻田先生がずっと担ってくださっていたと感じます。
「史実」と違うからといって「おはなし」にガッカリする必要はありません。「おはなし」が素晴らしい出来栄えであれば,「史実」を知れば知るほど,「こんなふうに史実を解釈して,素敵な物語にしてくださったのね ! 」と感動に繋がります。
「おはなし」と「史実」が適切に切り離され,双子のように似て非なる物語として独立することで,裕一さんの輝きも,裕而さんの輝きも,いっそう増すのです。
【三の型】『エール』は,現代人が人生の中で「課題」として抱えていることを取り上げ,真摯に向き合っていたか ?
『エール』が男性の物語を描こうとした朝ドラであることはよくわかります。
『エール』に登場する男性たちは,何らかの絶望や試練を経て,自分の内面と向き合い,家族や友人たちからヒントを得て自分のありようを見直し,更なる飛躍を遂げていきます。
男性たちの課題とその解決はきちんとシリアスなドラマとして描かれていました。(「長期視点派」が十分に納得できるような重層的な描かれ方ではありませんでしたが……)。
しかし,複数回の離婚経験者の昌子さんや仕事に勤しみすぎて職場の高齢独身者となった華の恋愛・結婚問題は面白おかしく描かれます。
Twitterでは「働く女性の恋愛・結婚は笑い話なの……?」という感想が多く見られました。
音の人生の描写も含め,女性側の課題の取り扱いが中途半端,あるいはお笑い視点すぎた,という感は否めません。
例えば,高齢独身女性を面白がって笑うような時代があったのは事実です。嘲笑する描写があるのもおかしくはありません。
問題は,作り手が「そういう価値観を良しとしない」と分かるようなフォローが同時に入っているかどうかです。昌子さんと華に対してそういうものはありませんでした。
描写されているのは昭和の価値観であるが,その表現をしている制作者はの価値観は令和版にアップデートされており,描写されていることの中にある問題点をきちんと把握している……という状態が望ましいのですが,『エール』では,人の痛みを嘲るような笑い方をすることの問題点に気づいていないのかな ? と感じさせる場面が散見されました。
コントのノリの朝ドラを作ろう ! というコンセプトは悪くなかったのですが,『エール』のコントノリは,登場人物の課題を嘲笑してしまう方へも働いてしまったため,課題の扱いに絡んで賛否が分かれたのです。
これを機に,「やっぱり朝ドラでお笑いはダメだ」となるのではなく,「令和の朝を明るくする笑いとはどんなものだろう?」という方向へ制作が向かってくれたらいいな,と一視聴者としては願います……。
【四の型】『エール』は,これまでの朝ドラでの物語の「語り方」をふまえて,新しい「語り方」を模索できていたか ?
『エール』は近年の『インスタ型』のAKの方向性にバッチリ合っているドラマだったと思います。
ですが……。
「エールは脇役の人生もちゃんと描く」ということを,チーフ演出・監督の吉田照幸氏はご自身のTwitterやインタビュー記事でおっしゃっていました。
そもそも,一番大きな柱となる主人公の人生を描くことと並走して,対立する人物の人生が描かれるのは,朝ドラの定番です。『あまちゃん』のアキに対するユイ。『あさが来た』のあさに対するお姉ちゃん……。
しかし,『インスタ型』の『エール』は,主人公の人生の物語に対立する人物の人生を並走させ絡ませる形式ではなく,各イベントごとに分けて見せる形式でした。後半でサブキャラクターの話が深掘りされた時に,新しいエピソードや設定が唐突に出てきました。「見えないところできっとこんな話があったのね」と脳内補完した視聴者もいましたが,「そんな設定,今まで出てなかったじゃない ! どうして最初から伏線として仕込んでおかないのよ ! 」という批判も出ました。
その点については,脚本家さんの降板,新型コロナ禍があったことを鑑みて,『エール』は「全体を貫く大きな物語」を構築する余裕が全く無かった,不遇な作品だったのではないか……というふうには感じます。
ですが,それでも,『エール』が各イベントに振り分けた様々なテーマをきちんと描き切れたかというと,やはり疑問が残ります。
例えば,文春オンラインの記事では,Twitterでの映画評等で知られるCDB氏が,日本人の戦争意識と絡めて『エール』評を述べておられます。
『エール』で描かれるのは「美しい文化を踏みにじる野蛮な軍部」ではなく,美しく繊細な文化,楽しい娯楽が戦争に加担し巻き込まれていくプロセスである。
しかし,『エール』を批判していた視聴者は「そのプロセスを描きたいことはわかるが,実際の作品の中では,独立イベントの連続で,プロセスが描けていないじゃないか」と批判していたのです。
CDB氏の心の中にある様々な「他作品の戦争描写」を想起させるだけのフックを,『エール』は持っていたのだと思います。ですが,『エール』が同様の問題を的確に取り上げ,描写できているかどうかとは関係がありませんし,論じられていません。
また,朝ドラの「鉄板ネタ」については,もう少し上手い使い方があったのではないか ? と思います。
例えば,裕一と音の父親たちの「幽霊ネタ」です。
登場人物が幽霊になって出てくる……という描写自体は,朝ドラでよく使われるものです。*26
ですが,その「面白表現」によって,登場人物の死の深刻さが薄れてしまう側面はありました。藤堂先生が亡くなった時に「また幽霊で出てきたらいいじゃん」という感想が出ていたことにそれは現れています。「死後もあの世で楽しく暮らせる世界観」と「救いのない,悲劇的で取り返しのつかない死」が整合しなかったのです。
『カーネーション』では糸子の父親の幽霊がさりげなく登場しましたが,それは母親だけが見た幻だったのか,判明しない登場になっています。『まんぷく』では福子の姉の幽霊が度々登場しますが,母親の妄想や願望が姉の幽霊の形をとっているのだと分かる登場の仕方でした。「幽霊」がドラマの世界観を混乱させていないのです。
『エール』は,笑えるコントとシリアスな人間ドラマの両極をどちらも取り込もうとした意欲作ですが,それらをもっと大きな物語で整合させることには至れなかった……と言わざるを得ません。(ただしこれは,長期視点派の視聴目線で,短期視点派の視聴目線で見れば「全然OK」になるところです)。
「新しい朝ドラ」とは何なのでしょうか。
かつて『鳩子の海』で林秀彦先生はヒロインの離婚問題を扱うことに挑戦されました。その問題を扱うことに難色を示した局側との様々な軋轢の末,一度,脚本担当から降板もされておられます。*27
『エール』が行った「新しさ」とは,『鳩子の海』のように「それまでの朝ドラで扱ったことのない題材を盛り込み,現代人の課題を浮き彫りにする」とか「全く登場したことのない主人公像を描く」ということではありません。大河ドラマが常に挑戦している「最新研究の史実を踏まえて,実在の人物の人生を新たな物語で鮮明に浮かび上がらせる」でもありません。
あくまで「今まで朝ドラの枠の性質から避けられていた映像表現を実現する」ことや「コントのノリを用いた笑いの表現を盛り込んでみる」という点での新しさのみに留まった,と筆者は考えます。
「今までやってない表現をやる。それがこれまでの朝ドラの暗黙の約束を破るものであってもやる」という意図や意志自体は全く批判されるようなものではありません。
しかし,もし「史実云々や難しいことを考えず,頭柔らかくして皆で観る娯楽超大作」にしたかったというのなら,むしろそういう作品だからこそ,視聴者のセンシティブな部分に触れる描写に配慮し,「史実」と「おはなし」の切り分けをきちんと行っていくことが必要だったと思います。
おわりに~あなたは朝ドラにエールを送れますか ? ~
本稿を書くにあたり,第1作『娘と私』からの,朝日新聞と読売新聞の読者欄に投稿された朝ドラ視聴者の感想を,時間の許す限り読みました。1作につき2,3件,多くても10件以下にとどまってしまいましたが,それでも,
「左利きの子役から右利きの娘役に代わって違和感。制作の配慮不足」
「舞台になった時代のリアリティーが足らず感情移入できない」
「主演が初々しく眩しいから良い」
「原作からのあの改変は納得がいかない」
「主人公たちが幸せにしてもらえて良かった」
などと,掲載紙上で散々やりあっている様子が読めました。
「連続テレビ小説」に対する視聴者たちの態度は,今Twitterの「朝ドラ」タイムラインで見られるものと,全くそっくりなものでした。
朝ドラとは,出来が良かろうが悪かろうが,「みんな」とああでもないこうでもないと語り合い,時には賛否両論激突させながら,楽しむものだったのです。(特定のスポーツチームを長年応援している人にはよりピンとくるファンのあり方かもしれません)。
とはいえ,SNSによって朝ドラの感想を言い合える範囲が拡大し,手のひらのスマホで24時間いつでも「議論ができる」状態になってしまったのは,ファンの精神衛生的に良いことではありません。
本来ならば,作品に対する賛否がひとつのところに集まって,誰もが両論読めるのが,健全な批評の状態だと思います。
しかし朝ドラは,観る人の視聴スタイルを炙り出す構造を持ち,その人の生活習慣や社会における立場に触れ,今その人が悩んでいることにまで刺さってしまう可能性を持つドラマです。「推し」の俳優さんが主要キャストを務めている場合には,さらに思い入れは深くなるでしょう。
大激論にとどまらず,視聴者さん同士の罵倒や誹謗中傷にも発展し兼ねません……。(っていうか既に何度も起きちゃってるし)。
自分と違う立場の人の意見も思いやった「賛否両論」が公式のタグに一挙に並んで,その作品が盛り上がることが理想の状態なのだとは思いますが,なかなかそう上手くはいかないでしょう……。
「批判タグにいる人間は陰険だ」と今年も言われてしまいましたが,自分の意見の方向性に合ったタグに分かれて感想を話し合うようにすることは,お互いの精神衛生を守るためにも必要なことだと思います。(毎年例に出して恐縮ですが,『半分,青い。』のように,脚本家さんが直々に反論を言いに来て,トラブルに発展することもありますしね……)(でも,知り得る限りの朝ドラ関連タグを賛否両論毎日回遊していた筆者は,とても楽しかったです……RT,いいね,ブクマ,ご意見交換をさせて頂いた皆様,この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました)
「サンは森で,私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。」
長い朝ドラの歴史の中では,「なんだこれー?! 」と視聴者が思うような作品があることも大切なことなのだと思います。そこでのトライアンドエラーがまた,未来の朝ドラの推進力になります。
「大好き」な作品も「大嫌い」な作品も,私たちは自由に楽しく朝ドラを語って良いのです。
「大好き」も「大嫌い」も,等しくエールとなって,明日の新しい朝ドラを作るのですから。
*1:金子満『シナリオライティングの黄金則』 2008年 ボーンデジタル 詳しい用語等の説明まではできないのでぜひ本書をお読みください ! と言いたいところなのですが,現在入手困難となっている一冊であるうえ,所蔵している図書館も限られているのですよね……でも,ご興味が湧いたかたはぜひ。
*2:2020/12/16追記:元の資料はハリウッド映画の筋立てを扱ったものなので,朝ドラの構成とは厳密には違う! という点については,今回の稿では詳細に差異と類似を述べるところまで届きませんでした。学びが追いついておらず大変申し訳ないのですが,また次回の宿題とさせてください……今回は「大まかな『おはなし全体の見せ方』の説明」として使わせて頂きます。
*3:沼田やすひろ 『「おもしろい」映画と「つまらない」映画の見分け方』 2011年 株式会社マッドハウス
*4:自分の好きなものを褒めたくても褒められないって,なかなかつらい状況だよね。つらいからというのもあって,「わたしのかんがえたさいきょうの朝ドラ」を思いついてしまう視聴者が多数現れるんじゃないかなと思う……。朝ドラは何十年も観続けている視聴者が多数存在し,自分の心に残っている作品の展開を当てはめて「なんとなく,朝ドラならばこういう展開をするだろう」と,「二次創作」が出来るようになっているファンが沢山いる枠なんだ。私が2018年に勢いだけで書いた「半青を直してみた」もこれに該当するなあ,と今は思います。
*5:ちなみに新聞記事のデータベースで検索すると,10年より前は「朝ドラ」ではなく「連続テレビ小説」で検索しないと,多くの記事が引っかからないんですよね…「朝ドラ」という呼称自体は1967年から存在するにもかかわらず。
*6:2020/12/16追記:まるでブルデューの『ディスタンクシオン』で述べられている「趣味」を通した「闘争」が起きているかのようです。Eテレさんの番組「100分de名著」の岸政彦先生による『ディスタンクシオン』の回が大変示唆に富んでいるのでぜひ。https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/104_distinction/index.html
*7:https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20190901_5.pdf
*8:田幸和歌子『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』太田出版 2014年
*9:https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/pdf/20200130_3.pdf
*10:指南役 『「朝ドラ」一人勝ちの法則』 2017年 光文社
*11:木俣冬 『みんなの朝ドラ』 講談社 2017年 指南役氏が明らかにした黄金メソッドは本当は7つあるのですが,表紙帯では3つにまとめられて示されており,岡田先生はその3つを指してお話ししておられるようでした。
*12:https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/pdf/20200130_3.pdf
*13:連続テレビ小説 エール Part1 NHKドラマ・ガイド NHK出版 2020年
*14:https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/pdf/20200130_3.pdf
*15:指南役 『「朝ドラ」一人勝ちの法則』 2017年 光文社
*16:https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/pdf/20180901_10.pdf
*17:97年夏以降の朝日新聞東京版掲載だと思うのだが,まだ元記事を見つけられていない。私以外にも「この記事を読んだ」という方がおられて,記憶している内容が一致しているので,私の妄想でないことは確かなのだが。このインタビューの記事を覚えていらっしゃる方がおられましたら,ぜひご一報ください。
*18:この辺の歴史については, NHKドラマ番組部 『朝ドラの55年』 NHK出版 2015年 木俣冬 『みんなの朝ドラ』 講談社 2017年 指南役 『「朝ドラ」一人勝ちの法則』 2017年 光文社 https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/pdf/20200130_3.pdf あたりを是非。
*19:https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/pdf/20200130_3.pdf
*20:NHKドラマ番組部 『朝ドラの55年』 NHK出版 2015年
*21:https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/pdf/20200130_3.pdf
*22:https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/pdf/20200130_3.pdf
*24:https://www.nhk.or.jp/css/report/
*25:NHKドラマ番組部 『朝ドラの55年』 NHK出版 2015年
*26:指南役 『「朝ドラ」一人勝ちの法則』 2017年 光文社
なつはなぜ愛されなければならなかったのか?〜『なつぞら』から考える,令和の朝ドラの方向性〜
【はじめに〜なつぞらまでのお話〜】
2018年,『半分、青い。』の感想タグでは大戦争が起こりました。
「面白くなかった」という感想を吊るし上げして反論する,脚本家の北川悦吏子さん。
『半分、青い。』が好きな人と『半分、青い。』を嫌いな人の間で起こるクソリプ合戦,罵倒ブログ合戦。
古参の朝ドラファンの皆様は考えました。
「これから,朝ドラが面白くなかった時は,公式タグではなく,別のタグを立てて発言しよう。私たちは居酒屋でクダを巻きたい面倒な朝ドラファンだ。自覚はある。楽しんでいる人と,クダを巻きたい人が,お互いの視界に入らないように,離れて生きれば戦争は起こらない。自らを隔離しよう」
2019年,
NHK東京放送局(略称AK)が自信を持って送る,朝ドラ100作目記念作品『なつぞら』。
今度こそ戦争は起こらないと,誰もが思っていたし,願っていました。
ばっちり戦争が起きてるやん……。
9月に入ると毎日のように「日本のトレンド」に入る「アンチ」タグ。
(「アンチ」と呼ばれた各派生タグは,元は個人が感想をつぶやいたり振り返ったりするために作られたものだったのに,なぜか人が集まってしまいました。公式タグでは言いづらいことを言いたい人が「アンチ」タグに流れてくるわけですが,一口に「アンチ」と言っても,そこには,俳優さんに罵詈雑言を吐きたい人もいれば,冷静に作品分析をしたい人もおり,様々なつぶやきが入り乱れておりました。様々な方向からの罵詈雑言に混じりたくなくて,更に個人タグを立ち上げる人も出るような状況でした)
「アンチ」タグに主演の広瀬すずさんが貶められたとお怒りになる,広瀬さんファンのみなさま。
(実際には,公式タグと「アンチ」タグのどちらにも広瀬さんに罵詈雑言を吐く人はいて,良識的な方々から眉をひそめられていました。とはいえ,罵詈雑言を吐く人は,「アンチ」タグの方に寄って来やすい。広瀬さんに向けられた罵詈雑言は,「アンチ」タグ常連者内からも「役と演者を混同するな」「俳優さんへの罵倒はやめて」「こんなこと言う人と一緒にされたくない」と批判や怒りの声が上がるような内容のものでありました。しかし,広瀬さんファンからすれば,「愛する人がアンチタグを付けている人間から罵詈雑言を受けた」ことに変わりないわけで,そりゃ「アンチ」タグに怒って当然だ。しかし,真っ当な批判も罵詈雑言も全て一緒くたに,「アンチタグが全て悪」とされてしまったことは残念ではあります)
100作目記念朝ドラなのにイマイチ盛り上がらず,「日本のトレンド」に入れない公式タグ「#なつぞら」。
(この辺が「公式アカウントの盛り上げが足りなくないか!?公式さん頑張ってよ!」という批判に繋がる時もありました)
それどころか,公式タグ(又の名を本タグ)でも賛否両論。
(「なんで公式タグで批判を言っちゃいけないのさ?見たくない人がミュートしてよ。私は言うよ」という方も勿論いらっしゃいました…いえ,「脚本家様が目を光らせていた半青の時よりは,批判意見が公式タグに戻ってきた」と言うべきでしょうか…)
なんでこんなことになっちゃったんだよおおおお!?
というわけで,
『なつぞら』がどういう物語だったか,何が起きていたのかをここに分析し,まとめておきたいと思います。
結論から言うと
「擁護」と呼ばれた人たちも,「アンチ」と呼ばれた人たちも,誰も間違っていませんでした!
少なくとも私はそう思っています。
ちなみに,
広瀬すずさん本人の人格や演技への好き嫌いとは全く関係ありません。
ここで述べたいのは,あくまで『なつぞら』という話の構造であり,
「なつ」という架空の人物の描かれ方です。
(広瀬さんの演技が上手か下手かという議論はここでは行いません)
また
「『なつぞら』がこのような構造だから,他の作品より劣っている(あるいは優れている)」ということをジャッジするものでもありません。
「作品の構造の中に,激しく好き嫌いを分かれさせる要素があっただけで,誰も悪くない」ということについて考える一助になれば,と思って書いています。
問.なんでみんな,「なつが好きか嫌いか」で大騒ぎしてたの?
どこのタグでも多く見られたのが,「なつが嫌い」という意見です。
それに対して「広瀬すずさんは頑張ってるんだから,なつへの批判を言うな!」という反論もありました。
でも,その意見は,なつと広瀬さんを混同しすぎです。
『なつぞら』が始まった時は
「広瀬さん,人気の女優さんなのねー。綺麗なお顔立ちよねー。好きでも嫌いでもないけど」
ぐらいの認識のかたが大多数だったのではないでしょうか?
朝ドラの主演俳優さんがどれほど大変な量の仕事を引き受けなければならないか,どれだけ頑張っているかは,朝ドラファンならば誰でも知っています。
そうです,そもそもは
「広瀬さんが嫌い」ではなく,「なつが嫌い」から始まったんです。
まずそこから考えましょう。
そもそもなぜ,「主人公が好きか嫌いか」にこれほど焦点が当たる作品だったのか。
そして,「なつが嫌い」が行き過ぎて「広瀬さんまで嫌いになる」という人が出てしまったのは,なぜなのか。
(1)「なつが愛されていること」をまず受け容れることが必須の物語
私は,「なつを好きになれるかどうか」がこの物語の大きな論点となってしまったことは,自然なことであったと考えます。
なぜなら,この物語の構造自体が,そこへ収束するように作られているからです。
通常,「朝の連続テレビ小説」は下記のような構造で描かれています。
(時間なくて手書きでごめんなさい…)
「主人公が何を大切にして生きたか」を描くことが大テーマとなり,「女性の生き方」「仕事観」「恋愛模様」「家事育児」などの小テーマが各エピソードを複雑に絡むようにして描かれます。
つまり,
「A.なぜ物語がそのように展開するのか」の根拠が,全て
「B.主人公がC.何を大切にして生きたか」に貫かれているのです。
例えば,
A.佐賀でいじめられ続ける苦労よりも,新天地で一からやり直す苦労を選ぶのは,
B.おしんが,
C.自立して自由に生きることをずっと願ってるからなんだなあ
とか
A.お金がなくても家の中が大荒れでも,夫婦一緒に頑張ることを選ぶのは,
B.布美枝さんが,
C.旦那さんの茂さんが,非常に美しい心を持っていることを愛し,その仕事を素晴らしいものだと思っているからなんだなあ
とか
A.結局,恋愛の方にケジメをつけて,終わらせることを選ぶのは,
B.糸子が,
C.仕事人としてしっかり筋を通すことを何よりも大事にしているからなんだなあ
という構造で,視聴者に「なぜ物語がそのように展開するのか」の根拠が伝わるのです。
(上から『おしん』『ゲゲゲの女房』『カーネーション』です。各作品は,本当はこんな一言では語り尽くせないほど様々なテーマを包含しているのですが,今回はものすごく簡潔に語るために,その説明に字数を割きません。ごめんなさい)
しかし『なつぞら』における「なぜ物語がそのように展開するのか」は,ぐるぐると最初の地点に戻ってきます。
『なつぞら』は,「なつが愛されていること」が大前提なんです。
これは,大テーマを描くこととは違います。
「いやいやそんなことないよ!なつの開拓者精神を描いてるって制作側も言ってるじゃん!」と反論するかたもいらっしゃるでしょう。
しかし,
「なつの開拓者精神」が物語の展開の根拠になっていると仮定して各エピソードの展開を見てみると,筋の通らない部分が多数出てしまうんです。
例えば,一部の例を挙げると,
・茜さんが退職する時は声をあげなかった東洋動画の社員たちが,なぜなつの退職にだけは猛抗議したんでしょうか(茜さんは自分で声を上げなかったから辞めてやむなし!では、あまりにも茜さんの仕事に対する言い分が封じられています。「辞めたくないと言ったら助けてもらえる、言わなかったら助けてもらえない」では,会社の仕事としても女性の生き方の対比としても描写が簡素すぎます)
・茜さんは自分自身もアニメの仕事に復帰したいのに,なぜなつの娘・優の託児業務を引き受けてくれたのでしょうか。(茜さんは子どもと一緒にいたかったんだからこれでいいのだ!で解決してしまっては、あまりにも、なつの同僚として/母親としての思いやりの描写が薄くなりませんか?茜さんが決して菩薩のような人でないことはさらに終盤に描かれるので,そことの整合もつきません)
・あんなに兄妹の再会に拒否の素振りをのぞかせていた千遥が,なぜ結局,思いを翻して咲太郎・なつと合流したのでしょうか。(千遥は家族関係に問題を抱えていたし,離婚して自由になったからこれが自然!と思われるかたもいらっしゃるかもしれません。しかし,置屋に行った後〜嫁入りまでの千遥の境遇自体にファクトと整合性の怪しいところが多々あります。また「家族の味」となった天丼の味の継承についても時代考証が怪しい。つまり,先に述べた「状況からくる千遥合流の理由」がそもそも成立し難いのです)
などなどなど。
これらは「なつが開拓者だから」では説明しきれませんよね。
そもそも「何を」開拓しているのかの描写も曖昧です。
(むしろ,なつは「開拓者だから」会社で守られ,茜さんは「開拓者ではないから」辞めざるを得なかった,では、なつにだけ救いのある辛い物語になってしまいます)
でも
・茜さんが退職する時は声をあげなかった東洋動画の社員たちが,なつの退職に猛抗議したのは
→「なつは(社員みんなに)愛されているから」
・茜さんが自分も仕事をしたいにもかかわらず,なつの娘・優の託児業務を引き受けてくれたのは
→「なつは(茜さんに)愛されているから」
・千遥が結局,咲太郎となつのところの集うことを望んだのは
→「なつは(千遥に)愛されているから」
と考えると,スッと筋が通ります。(全てのエピソードを同じように分解するには字数が足りないので,あとは皆様,各自脳内補完でお願いします…)
つまり,『なつぞら』における「なぜ物語がそのように展開するのか」の根拠はたったひとつ,「なつが愛されていること」なのです。
そのため,「女性の生き方」「仕事観」「恋愛模様」「家事育児」などの小テーマにおいても,問題が解決する理由や,展開の根拠が全て「なつが愛されているから」になります。
なつは愛されているから,仕事が上手くいく。
なつは愛されているから,育児も助けてもらえる。
なつは愛されているから,離散した家族がもう一度集まる。
なつは愛されているから…
逆に言えば,
「なつが愛されている」という前提を最初に受け容れることができなければ,この物語に納得することは全く不可能になります。
しかし,
作中で「なぜなつが愛されているか」についての説明に当たる部分は,ほぼ描かれません。
(下記,重箱のすみをつつく細けぇところは興味のある人だけお読みください!)
絵の才能がある,素晴らしいアニメーターと言われていましたが,仕事で徹夜する,動物の動きの真似など,仕事の表面的な部分を描くばかりで「どのあたりが仕事人として素晴らしいのか」「アニメーターや作画監督の仕事はどのようなものか」の微細な描写はありませんでした。絵が好きでたまらない,という描写が無いのにある日突然「私は絵が好きだ」と言われても「えっ!?そんな素振り見せてなかったじゃん!」と言われてしまいます。産休育休を巡る労働争議についても「大人の事情」が絡んでいるのか詳しく描かれることはなく「愛されなっちゃんに皆味方する!」というノリで解決してしまいました。この描写から逃げたことは,「日本初の女性アニメーター」としてのなつの深い魅力をだいぶ削いだと思います。制作を巡って上司や先輩,同僚と激突もしていましたが,なつが自ら引っ張っていくというより,周りの人にヒントや助けをもらって解決することが多く,なつ自身の考えが見えないことに不信感を抱く人も少なくなかったです。長年子供を預けている先(茜さん家)の子供の誕生日を覚えていないなど,女性として,母親としても配慮の無い言動が多々あり,「中に入っているのオジサンでは…」と批判されることすらありました。茜さんやマコさんがなつのどのへんを好きで味方しているのかが詳細に説明されることもありませんでした。昭和でありながら平成令和の育児問題を描く,保育は茜さんに丸投げなど,「働くお母さんのリアル」が薄い部分が相当あり,育児関連のことがテーマになった週は視聴率も落としています。そもそもなぜ十勝で実子そっちのけで可愛がられてきたのかの根拠にあたる描写も不足しています。幼いなつがおんじと一緒にアイスを食べた時には,確かに,なつが愛されなつに変貌していく伏線が張られていたように見えていましたが,「なつの戦災孤児としての苦悩や孤独の描写」「他人の顔色を窺う辛さ」が「自然体の,愛されなつになっていく幸福な過程」と明確に関連づけて描かれることはありませんでした。
ですが逆にそのことが,「なつが愛されていること」が,この作品の「テーマ」ではなく「大前提」である証拠なのだと私は考えます。
『なつぞら』において,「なつが愛されていること」は,各エピソードで様々な描写で繰り返し描かれ,回を経て説得力や重厚さを増すもの(テーマ)では無い,ということです。
「なつが愛されていること」は,この作品の揺るがぬ大前提です。
そして「なつが皆に愛されていること」がオチとなるエピソードを作ることに注力したために,本来のこの作品のテーマであったはずの「なつの開拓者精神とはどのようなものなのか」を描写することは散漫になりました。
「なつの開拓者精神とはどのようなものか」がテーマとして何度も描かれ,その結果として「半年間視聴した人はなつを愛さずにはいられなくなる。みんながなつを愛してしまう」という描き方ではありません。
このあたりが
「なつは中身が無い,からっぽだ」
「仕事も育児も結局,不機嫌を周りの人に悟らせてからの人頼み。アイス食いながら『一番良くないのは他人が何とかしてくれると思って生きていくことだ』っておんじに諭されたのは忘れたのかよ!?」
と批判されてしまう所以です。
なつは自分の周りの人々の様々な問題の解決に取り組みます。
しかし,なつを好きになれた人からは「これもなっちゃんの開拓者精神なんだな!」と好意的に解釈できますが,なつを好きになれなかった人からは「デリカシーなく,周りの人の問題に首を突っ込んでいるだけじゃん。これのどこが開拓者精神の表現なの?」としか思えません。
制作スタッフの皆さんは,本当に善意で,「戦災孤児から愛されっ子に生まれ変わるなつ」を作ろうとしたのかもしれません。
でもね…
どんなに素晴らしい物語でも,絶対に受け容れなければいけない大前提として「主人公が皆に愛されていること」を設定したら,それは「その人物を好きになることを強制する物語」になってしまう危険性があるのですよ…
多くの朝ドラファンは,半年間,主人公が何を大切にして生きたかを観た結果,その主人公(俗に言う朝ドラヒロイン)を好きになります。長きに渡る撮影を頑張り抜いた俳優さんを讃え,俳優さんごとその主人公を長く愛します。
半年間,「主人公が何を大切にして生きたか」をがっちり描いた物語を視聴した結果,主人公を好きになる(勿論,嫌いになる自由もある)。
その順序であれば,激しく拒絶する人はそれほど多くなかったかもしれません。
ですが,『なつぞら』においてはそれが出来ません。
まず最初になつを好きにならなければ,視聴者として弾かれてしまいます。
最初になつという人物を好きになることができた視聴者さんや
「好き」まではいかなくても「見てても全然嫌な引っ掛かりが出ない」視聴者さん,
もともと広瀬すずさんのファンで「どんなことがあってもなつを好きでいる」と心に決めていたかたにとっては,
『なつぞら』は非常にわかりやすく,受け容れやすい物語であったことでしょう。
ですが,「なつ」という人物と何らかの理由で合わなかった視聴者さんにとっては,非常に押しつけがましく,気持ちの悪い物語になっていたのです。
【2019年9月29日追記】(細けぇところなので,ご興味のある方だけお読みください)
大森先生の(おそらく『なつぞら』に関してはラストとなる)インタビュー記事を読みました。
「なつが愛されていること」が今作品の最大の根拠になった背景について
・戦災孤児であることについて→深掘りすると暗くなる。ライト層向けの作品だからやめてほしい。
・アニメ会社の仕事について→労働争議や働き方問題を深掘りすると,モデルとなった企業のイメージ悪化に繋がるからやめてほしい。
・北海道開拓について→ロケを増やす予算は無いので,予算内でできることにしてほしい。
・女性の生き方問題について→深掘りすると炎上や視聴者離れの原因になるからやめてほしい。
みたいなオーダーがあったからなのではないか,と感じました。
深掘りしたい事が全部封じられた末に,最も安全な頼みの綱として設定された,全編を貫ける「たったひとつの冴えた根拠」が「なつが愛されていること」だったのではないかな,と思ったのです。妄想ですみません。
何を申し上げたいか言うと,大森先生も,磯Pも,各スタッフのみなさんも,我々視聴者の想像を絶するような過酷な条件の中で,100作目を作っていたのかもしれない,ということです。Twitterでは,『精霊の守り人』『なつぞら』と,素人目にも大変難しい作品を執筆された大森先生を「NHKドラマの爆弾処理班」と評するかたもおられました。また,磯Pは,名作でありながら「低視聴率」「画面が汚い」などの批判に晒され続けた『平清盛』を,最後まで見事に作り上げたプロデューサーさんです。ドラマファンからの信頼はとても厚いです。100作目が大変なのは誰もがわかりきっていたことですが,名脚本家さんと名プロデューサーさんを配してもなお,あまりにも制約が多すぎたのはないか,と思ってしまうのは,考えすぎでしょうか…。
(2) なつ以外の女性登場人物に感情移入すると,自然と、なつを批判する視点が出る
とはいえ,
「主人公が愛されていることが物語の大きな柱となること」自体はおかしなことではありません。
「主人公が愛されていること」が物語の重要な柱となる作品も勿論あります。
アイドル映画やアイドルドラマです。
アイドルさんにできるだけそのままの魅力を活かす演技をしてもらい,「主人公(主演者)が絶対的に愛されている」ということを前提に,その魅力を撮る。
主演アイドルさんのみずみずしい演技と,作品テーマと,脚本・演出が奇跡のマリアージュを遂げた,傑作がたくさんあります。
そもそも,朝ドラは,「若手女優の登竜門」としての役割を担ってきました。「主人公(と,主人公を演じる俳優さん)の魅力を最大限に引き出す」「主人公が愛されることを重要なキーとする」という意味で,アイドルドラマの要素も持っているドラマ枠です。「愛され主人公」「主人公が愛されるように物語が進む」,それ自体はよくあることです。
『なつぞら』は朝ドラのお約束にしっかりのっとっているはずでした。
では,これまでのアイドルドラマと,『なつぞら』はどこが違うのでしょうか。
もし,王道のアイドルドラマであったならば,物語の中に「主人公に真逆の立場のライバル」や「主人公へのアンチテーゼ」が散りばめられています。
それらは,主人公を視聴者に嫌わせたり,主人公を過剰に持ち上げたりするために配置しているのではありません。
「あなたの考え方,おかしいよ!」「私はあなたと同じようには思えない!」と誠実にぶつかってくれる存在を登場させることで,主人公の魅力や哲学がより明確に描かれるのです。
その構造を非常に複雑に使ったのが『あまちゃん』です。
主人公のアキには「光と影」として常に対照的なユイが,
「女の三代記」「母と娘の衝突と和解の物語」としての春子と夏ばっぱが,
同志としてのGMTのメンバーがいました。
それらの登場人物の全員が「アイドル」であり,同時に確固とした意思を持った一人の女性であり,全員の言い分がきちんと描写されていました。その人物の言い分をしっかり描くことで、その人が人生の中で背負ってきたものが明確になります。そして,視聴者は誰か一人に偏ることなく,その物語を俯瞰することができます。「他の誰かに感情移入したら,主人公のアキを嫌いになってきた…」となるような構造は持っていません。
親友ユイや母親の春子の心の闇すらも,アキとぶつかり合い,それぞれの人物がますます魅力を放って生きていくための強い原動力に変換されていきました。
しかし,『なつぞら』ではそのようにはなりません。
もし,なつ以外の人について,心の闇の部分まで感情移入したら,
「夕美子がグレるのもわかるよ,だって自分の実家なのになつばっかり中心じゃん」
「マコさんが女性初のアニメーターじゃないの…?なぜなつに譲るようなことに…?」
「茜さんがどれだけ苦しい思いで仕事辞めたと思う!?託児押し付けんなよ!」
「千遥は出自を隠したいと言ってるのに,どうして乗り込んでくるんじゃボケ姉!」
などと,逆に,物語中では描かれていない,なつへの批判視点に気づいてしまいます。
『なつぞら』は,「なつを中心に本物の家族が作られていくこと」を最終ゴールとして描きたいために,他の登場人物の心の闇についての描写をきっぱりと削ぎ落としています。他の登場人物と,ぶつかっているようでぶつかっていないのです。ぶつかるたびに「なっちゃんが凄いから解決した」というオチがつき,全ての人物が「なつ」に収束していきます。
『なつぞら』が描きたいのは,「なつを中心に本物の家族が作られていくこと」の光の部分,ハッピーな部分です。
だから
「家族(同然)だからという理由で,自他の境界を安易に超えて相手に頼るのは,依存や搾取ではないのか」
「家族(同然)だからという理由で,ありがとうを言わない,勝手にボディタッチして良い,努力を腐すなどが描かれるのは家庭内ハラスメント行為の描写ではないのか」
「性と恋と家族の線引きについて問題があるのではないか」
といった,「なつを中心に本物の家族が作られていくこと」で起こりうる闇の部分は描かれないのです。
2016年にドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』が,家庭内における「愛情の搾取」を示し,「家族だから〜」などの理由で相手を束縛し自分の思い通りにすることの危うさについて丁寧に描いたこととは,全く真逆の発想です。
切り捨てた闇の中に,見る人によっては心の傷やポリシーに関わるような,重要で繊細なものが入っていました。
困難を乗り越え,ハッピーで埋め尽くされていく話のはずが,徹底的に闇を排除したことによって,逆に,『なつぞら』と決定的に合わない視聴者を生み出してしまったのです。
(話は脱線しますが,『なつぞら』において「なつを中心に本物の家族を作る」ために,登場人物の全てが自他の境界をドロドロになくし,「からっぽの器である孤独ななつ」に融合していくことについて,「人類補完計画だ!」と指摘した方が複数おられました。大変興味深い考察です。試しに,「なつを中心に本物の家族が作られていく」を光の部分の物語として,横に置いておいてみましょう。そして,隠された闇の部分…なつの周りの人々の心の中に起こっていてもおかしくない,他者と一体化することの気持ち悪さや,自他の境界が無いことの怖さや,他者を受け容れられない葛藤を,丁寧に読み込んでみましょう。すると,『なつぞら』の「なつを中心に本物の家族が作られていく」が,「みんなが『なつ』になっちゃえば苦しみもなくハッピーになれるよ」と,ホラーな感じに読めてしまうのです。「人類補完計画」「なつに還りなさい」に収束していく物語だとストレートに読解することができます。誰かと家族になるために自他の境界を溶かすことは,DV,モラハラ,児童虐待,毒親の連鎖などにも繋がる,本来ならば非常に恐ろしいことです。でも,なつとなつの周りにいる人々は,そのようなことに全く無自覚に,きわどいラインに触れているのです)
もし,なつ以外の人に深く感情移入したら,上で述べたような,「なつを周りで見ている人の心の闇」の部分が見えるでしょう。
本当に,制作側は「なつが愛されていること」をたったひとつの冴えた前提かつ根拠として「なつを中心に本物の家族が作られていくこと」を純粋に描きたかったのだと思います。その純粋さを,ありのままに受け取れたかたも沢山いらっしゃったことでしょう。
しかしその,たったひとつの根拠とゴールをあまりにも冴えさせたために,『なつぞら』は,他の人物(特に女性)の視点を持つことを許さない,「なつを嫌いになる自由の無い物語」にもなっていました。離れたり,嫌いになったりする自由を相手に持たせないのは,もはや暴力です。『なつぞら』では,「ワーキングマザーを扱っている作品なのに実際のワーキングマザーから苦言が飛んでくる」ということもよく起きていましたが,その理由の一つは,この作品が「他の女性の視点を持つことを許さない不寛容さ」を包含していたからではないか
と私は考えています。
(3)じゃあ,なぜ,「なつ嫌い」が「広瀬すず嫌い」に繋がってしまったの?
ここまで述べてきたように,『なつぞら』は,「物語を好きになること」と「主人公のなつを好きになること」ががっちり一体化した構造を持った物語です。
まず「なつ」を好きにならないと,物語を好意的に読むこと自体ができなくなります。
つまり,物語全体への不満や批判が,主人公に非常に向かいやすい。
主人公を演じるかたに大変負担がかかる構造をそもそも持っているのです。
もし制作サイドがそのことに自覚的であったならば,去年の『半分、青い。』のように,役と俳優さんの間に明確に境界線を引いたでしょう。鈴愛は,永野芽衣さん本人と明確に違う人物として成立していました。そして,北川悦吏子先生への批判が激化しても,永野芽衣さんを批判する声は上がりませんでした(元から永野さんを嫌いだという主張の人は除いて)。
だから,「なつ」という架空の人物も,広瀬さん本人と明確に切り分けられていたら良かったんです。
しかし『なつぞら』制作スタッフは「なつは広瀬すずさん自身を出せばOK!一体化しちゃってOK!」とGOサインを出していたのではないでしょうか。
脚本家の大森寿美男先生も
「(広瀬さんのファンなので、奥山さんと)違ったとしても全然いいや」
「広瀬さんが表現することがなつの正解」
と考えていたと,インタビューで語られています。
また,『なつぞら』公式は,「なつのモデルが奥山玲子さんである」と大々的には宣伝していません。少なくとも調べられる範囲では,奥山さんの夫である小田部さんが「なつについて妻もヒントにした」と前掲の記事で語ったことが最初で,そこから各メディアで「なつのモデルと見られる人」「なつのモデルの一人」などと取り上げられるようになったようです。
そう,広告宣伝としては「奥山玲子さん=なつ」に乗っかっていましたが,
人物造形においては「奥山玲子さん=なつ」では全くなかったのです。
この点について,今も「奥山玲子さんをモデルにしたから,なつは素晴らしいんだ」と賞賛されるかたも,「奥山玲子さんをモデルにしたはずはのに,なつは奥山さんと全然違う!」と憤慨されるかたも,どちらもおられます。
ですが,大森寿美男先生ご自身も
「奥山玲子さんという人も参考にさせてもらいましたが、奥山さんそのものを描くのではなく、奥山さんみたいな人を勝手なイメージで作っただけ」
と,9/13付けのマイナビニュースのインタビュー記事で話しておられるので,
「なつ」と「奥山玲子さん」の距離感は「女性初のアニメーター」という肩書きを借りただけの全くの他人
ぐらいだと考えておくのが適切なのでしょう。
(ちなみに,スタジオジブリ出版部の小冊子「熱風」の9月号では,高畑勲監督夫人であるかよ子さんが,「本当の奥山さんはあんなセンスの悪いおしゃれじゃなかった」「奥山さん怒ってるよ」と小田部羊一さんに苦言を呈したことが述べられています。また,小田部さんは他のかつての同僚からもなつの造形が奥山さんと違うと指摘されたことを明かしています)
このようなことから察するに,広瀬さん渡っていた演技のオーダーは
「奥山さんは一応参考にして。でも無視していいから。ていうか,結局はすずちゃんの好きなようにやっちゃっていいから」
という,矛盾に満ちたものだったのではないでしょうか。
その結果,起こったことは何だったか。
例えば,中川大志さん演じる「一久さん」が,夫からの愛情表現として「ラーメンのメンマをなつにわけてあげる」というアドリブを入れた時に「何でメンマくれたのかわからない」となってしまう広瀬すずさんが出来てしまうのです(あさイチインタビューより)
「なつ」という「一久さんを愛し,一久さんに愛されている架空の人物なつ」としてではなく,「広瀬すず」としてアドリブを受けたために,「中川大志さん」がメンマをくれたことと,それが「不器用な夫・一久」の愛情表現であることがとっさに繋がらなかったのです。
私は,広瀬さんの役作りが間違っていたとは思いません。
「なつ」という演じるべき「架空の人物」をきちんと用意してもらえず,「好きにやっていい」と言われて,そのまま等身大の感覚で演じたことは,朝ドラのヒロインとしては少々浅慮だったのかもしれませんが,間違いではありません。
問題は,このような「役作り」を推奨することによって,「なつ」という架空の人物と,「広瀬すずさん」の境界線が限りなく曖昧になってしまったことです。
「なつという人物像」が良くなかったのであれば,そこに対する批判や感想を述べれば良いのです。広瀬さんの演技力についてだけではなく,脚本や演出,制作全体が批評対象になります。
しかし,なつと広瀬さんの境界線があまりにも曖昧になってしまいました。
「なつを好きになれないと面白さがわからない」「なつ以外の人物を好きになることが許されない」構造の物語を「なつとほとんど境界線を曖昧にさせながら広瀬さんが演じている」という状況では,「なつを好きになれなかった視聴者の不満」は,相当,広瀬さんに向かいやすかったのではないでしょうか。
そのために,両者を混同する人が後を絶たず,広瀬さん個人への人格攻撃などが相次いだのだと思います。
「なつ」はどうしても愛されなければいけなかった。
『なつぞら』という作品が愛されるためにも,広瀬さんが心ない攻撃に晒されないためにも。
「孤独な少女が,世の中の流れに流されながらも,本当の家族を作っていき,愛し愛される」物語ですから,なつが愛されていくこと,なつが愛されていることは,物語中で必然となる要素でありました。
でも本当は,物語の枠を超えて,もっと深い意味で愛されなければいけなかったのです。
そのことが,「なつ」と広瀬さんにどれだけ負担になったことでしょうか。
広瀬すずさんの魅力に惹かれて起用し,このドラマを制作したはずが,なぜ結果的に「批判が起きたら広瀬さんに全責任を押し付ける構造の物語」になってしまったのでしょうか。
このように「役と俳優を安易に混同することの危険性,また,そのような構造を持った物語の危うさ」について,一視聴者としてもしっかり注意しておきたい,と心から思います。
というわけで
問.なんでみんな,「なつが好きか嫌いか」で大騒ぎしてたの?
につきましては
答.「なつぞらは,最初になつを絶対に好きになっておかないと,展開に全く納得できなくなる構造をはらんだ物語だったんだ。なつを好きになれるかどうかが,この作品に納得できるかどうかの踏み絵になっていたから,みんなそこに注目せざるをえなかったんだよ。踏み絵の中の人となってしまった広瀬すずさんには,だいぶとばっちりだったと思う」
と答えさせて頂きたいと思います。
「広瀬すずさんは頑張ってるんだからなつへの批判を言うな!」という人も,
「広瀬すずが嫌いだから最悪の作品だったわ」という人も,
広瀬さんとなつを混同し,適切な作品評が出来なくなっているという点では,どちらも同じです。
しかし,
「なつが好きだから『なつぞら』を楽しく最後まで観れた!」という人と
「なつが嫌いだから『なつぞら』を楽しめなかった…」という人は
どちらも,作品の構造をきちんと読解して反応している人です。
そう、「なつを好きか嫌いか」で激闘した人たちは,
どちらの立場であっても,作品が示している大前提を的確に読み取った人たちです。
違っていたのは,制作側が提示した大前提に伸るか反るかだけ。
「読解が足りない」「妄想がすぎる」などと「擁護」陣営と「アンチ」陣営が罵倒しあうこともありました。
ちゃうねん。
「擁護」と呼ばれた人たちも,「アンチ」と呼ばれた人たちも,誰も間違っていなかったのです。
そもそも,
『なつぞら』公式タグに主にいらしたのは,なつぞらや,なつや,広瀬さんを深く愛している人たち。
「アンチ」扱いされてしまったけれど,それぞれの別タグで棲みわけていたのは,『なつぞら』を愛せなかったけれど、それぞれ朝ドラを深く愛している人たち。
「擁護」や「アンチ」はどこにもいなかったんだと,私は思います。
そして,他の誰がどのような苛烈な批判をしてこようとも,
あなたの「好き」は,
あなたの「好きな作品」は,
あなたが感動した気持ちは,傷つきません。
そのことを,みなさまがそれぞれ,お大事になさってくださればいいなあと思います。
【おわりに〜朝ドラビギナー養成機関としてのAK朝ドラ〜】
『なつぞら』に限らず,近年のAK(東京放送局)朝ドラにはもう一つ特徴があります。
それは,「小テーマ完結型」ということです。
例えば,「女性の生き方」「仕事観」「恋愛模様」「家事育児」などの小テーマは,週ごとなどに完結して描かれます。
そこだけを聞くと,従来の朝ドラと変わっていないように見えます。
しかし実際は大きく違います。図にするとこんな感じです。
もしSNSだったら,こんな感じでしょうか。
エピソード(小テーマ)とエピソード(小テーマ)の間を繋ぐ説明がなく,文脈で理解するのではなく一枚絵で理解することができ,美しい場面が整然と並んでいてどこからでも楽しめる,インスタグラムのような感じになると思います。
『なつぞら』も,「小テーマ完結」でパートごとに見ると,「おんじとアイスの話」「一久さんのアニメ制作観」「天陽くんの死」など,連続性や整合性を持って素晴らしく感動的に描かれたものが存在しています。
しかし,全体を通して見た時の連続性や整合性はありません。
「なんか,なつは,天陽くんが死んでソウルメイトみたいに扱ってるけど,おまえ,上京してから全然天陽くんのこと思い出してる素振りなかったじゃん…」
みたいなことを突っ込んではいけないのです。
「小テーマ完結型」にはメリットがあります。
それは,しばらく視聴を逃してしまっても,また容易に戻ってこられることです。
これまでの「朝の連続テレビ小説」の形ではそれは無理でした。
毎日見ていないと繋がらないエピソード,わからなくなる伏線などが縦横無尽に張り巡らされていました。その意味では,朝ドラは「毎日15分間のプチ大河ドラマ」の側面も持っていたのです。
しかし今は,「決まった時間,必ず座って見ていなければいけないドラマ」がどうしても敬遠されます。テレビ以外の映像娯楽が発達し,「テレビ以外のものを見る」という選択肢が増えたことも一因だと思います。
素晴らしく重厚に作り込まれたドラマが敬遠されてしまうのは,ドラマファンとしては非常に残念なことです。
ですが,その状況を,このように考える人もいます。
>今、テレビドラマなんて観るのは馬鹿だけ。話が面白いかどうかとか、どうでもいいんだ。自分の好きなタレントが出ていたら、キャーと言って喜ぶ人、そういう人だけが観ている。
ワンパターンなものしか受けない,俳優の演技はどうでもいい,難しいものは敬遠される…。ドラマファンには残酷な言葉が並ぶ記事です。 これが,某キー局のドラマ制作プロデューサーの言葉だというのは,本当でしょうか…。
古参朝ドラファンのみなさまや,伏線や構成が複雑なドラマを好まれるタイプのかたが「こんな,エピソードごとにブツ切れの朝ドラ,『連続』でも『テレビ小説』でもねえや!!」とお怒りになるのはごもっともだと思います。全体を通して見た時の整合性が切り捨てられている部分を見ると,上記の記事で書かれているような「ドラマファンが制作側にバカにされている印象」を感じてしまうのです。
でも,いろいろな角度から「朝ドラ,面白いね!」と思ってくれる人が増えなければ,朝ドラ自体がいつか滅びるかもしれません。
『半分、青い。』『なつぞら』と続いて,AK(東京放送局)の方針自体を批判したいかたもたくさんおられるでしょう(ってそれは私か!)
しかし,きっとそこには,朝ドラの未来を見据えた戦略があるのだと思います。
そして,まだまだ,AKの朝ドラには大躍進の余地があると,私は思いたい…。
そもそも
「視聴率を取り、ライト層を取り込んで朝ドラ視聴の習慣をつけてもらう」
→AK(東京放送局)朝ドラ
「視聴率よりも視聴者満足度を取り、昔ながらの朝ドラ視聴者を逃さない」
→BK(大阪放送局)朝ドラ
で役割分担をしてらっしゃる気がするのです…。
(また,AKさんには「みんなに届いたもの(視聴率高)が良いものだ」,BKさんには「良いものを作ればみんなに届くのだ(視聴率高)」という信念がそれぞれあるような気もします)
つまり,そこからさらに,
「基本的にライト層向けなんだけど,古参ファンが見ても唸らせられるAK作品」
「基本的に古参ファン向きの濃さなんだけど,ライト層も気軽に楽しめるBK作品」
が生まれれば,良いのですよね…?
私はそれを待ちます。
それを待って,来年もAKに期待します。
朝ドラファンにできること・すべきことは,様々な方向へ朝ドラファンが増えていくための応援をすることだ,と思いながら…。
さて。
散々文句のようなことを書きましたが,
アニメージュ7月号のインタビューを読めば,大森寿美男先生がどれだけ船頭が多く変更が度重なる中で脚本を書いてこられたのかが偲ばれます。
散々とばっちりで,的外れで批判の体をなしていない罵詈雑言を受けてしまった広瀬すずさんのファンのみなさまには,辛い半年間であったと思います。
朝ドラが好きで好きで仕方がないのに,「アンチ」「悪の巣窟」と罵倒され続けた,ガチ朝ドラファン勢のみなさまには,非常に耐え忍んだ半年間だったと思います。
みなさまおつかれさまでした!!!
戦争は終わった!!!
終わりにしようよもう!!!
だって朝ドラは面白いから!!!
来週からの『スカーレット』,楽しく視聴いたしますが,
もちろん,来年の『エール』も楽しみにお待ちしております。
その道の、歩き方〜まんぷくは何が「マッドぷく」だったのか〜
はじめに
イチロー選手の引退は、多くの人に衝撃を与えた。
野球と真摯に向き合い、限界に挑戦し、己の信じる道を歩み続けたイチロー選手を讃える声が沢山上がった。
しかし一方で、妻である弓子さんのありようを取り上げて、批判する向きもあった。
「イチロー選手は毎日妻に自分のためにおにぎりを【握らせていた】」
— ⚡️避雷針の匡(たすく)⚡️@シノアリス&FGO (@tusk_saihate) March 22, 2019
「今まで2800個も【握らせた】上に「 「3000個【握らせたかった】」など会見で発言」
「典型的なモラハラ」
↑
これを認知の歪みと言います#イチロー引退会見 全文読みましたが「妻に無理矢理やらせていた」という言葉はありません https://t.co/BYosVGxUBi
私はこの意見を見た時に「あれ?見たことあるな?」と思ってしまった。
「……弓子さん、福ちゃんと同じこと言われてないか?」
2019年下半期朝ドラ『まんぷく』のヒロイン、福子。愛称は福ちゃん。
発明家の夫・萬平を生涯支え続けた女性。
夫に付き従ってばかりの、主体性の無い、つまらない女性。そんな感想も出ていた。
『まんぷく』はマッドな情熱と愛を持った夫婦の話だ(それ以外のこまけぇこたぁいいんだよ、フューリーロードを爆走するんだよ)と考えながら見直したら、ドリカムの主題歌もすごくハマっているように思えてきた。
— なな@ドラマ鑑賞アカ (@Sleepingnana) February 15, 2019
や、ドリカムの主題歌が、というより、ドリカムが歌ってきたことが?
2/15、私はこんなことをつぶやいた。
果たして、福ちゃんとはどういう女性だったのか?
『まんぷく』の何がマッドだったのか?
福ちゃんは、『まんぷく』は、視聴者に何をもたらしたのだろうか?
最終回を迎える今、書きとめておきたい。
今日は何と言ってもこれしかなかろう。。。#まんぷく #まんぷく絵 #ぷく絵 #安藤サクラ #まんぷくオープニング#福子 #福ちゃん #んばっ #こつぶイラスト pic.twitter.com/i880Ce0MRI
— こつぶ🍏 (@AngleofMouth) October 1, 2018
『まんぷく』夫妻の印象の変化
不器用な理系っぽい男の人とおっとりした真面目な女性が恋に落ち、
世界的な偉業を成功させ、数々の困難を支え合って乗り越え、生きていく話。
『まんぷく』開始当初、そんな、感動的でほんわかな夫婦の話を期待していた人がほとんどだったのではないだろうか。
だが雲行きはだんだん怪しくなっていく。
仲間の裏切り、投獄複数回、戦争、財産差し押さえ、家族間のトラブルetc……
新しい発明にチャレンジをしてはトラブルに見舞われ、失敗し、しかしまた懲りずに新たなアイデアを思いついては燃える萬平。
そんな萬平を福子は決して怒らない。
いつだって
「萬平さんならできます!」
とニッコリ笑う。
「エーーーー!なんでそこで夫を励ませるの!?許せるの!?」と思われたかたもいただろう。
(むしろ、どういうわけなの!?私は武士の娘なのよ!?できません!とドラマの中で憤るのはいつもお母さんの鈴さんでした。面倒くさい時も多々あったけど、時には我々の心の声を代弁してくれてありがとうブシムス)
「まあ、福ちゃんは最初から異様に受容能力の高い人として描かれてるから、そんな感じなのかもな……」と思って観ていた私もつまずきかけたエピソードがある。
それは、子供たちのいじめ問題だ。
実質無職の状態で、わけのわからないラーメンを開発している発明家の父がいることを理由に、萬平と福子の子供たちがいじめに遭ってしまう。
泣きながら「ラーメン作るのやめて、いやや」と訴える子供たちを福子は一喝する。
「いややない!」
「お父さんは誰も考えつかなかった世の中の役に立つものを作ってみんなを笑顔にする発明家やの」
「あなたたちをばかにした友達も お父さんが作ったラーメンをおいしいって食べて 笑顔になってくれるようになります」
TLも賛否両論。
「子供のことを思いやっていない」「それがまんぷく夫妻の哲学なんだ」「いじめのことを頑張って告白したのに」「むしろ根掘り葉掘り聞かない態度が良い」「ひどい親だ」「シビアに描きたいところだったんだ」
このあたりで釈然としない気持ちが限界に達し、『まんぷく』から離れてしまったかたもおられた。
ええええ。福ちゃんってこんな人だったっけか?
1.福ちゃんという女性のこと
萬平は、発明に能力と情熱を全振りしてしまったような人で、社会性も社交性も優しさも礼儀もどこかすこんと抜けている。
研究者肌であるだけではなく、発明家らしく、とことんバクチ打ち。今だったら「究極の理系男子」とか「ベンチャー企業社長あるある」とレッテルを貼られてしまいそうなタイプだ。
それに対する福子は、萬平に常に「あなたならできます」と言い続け、萬平が成功するためには労を惜しまず、萬平を責めることも愚痴ることもなく、そのありようを褒められても「私は萬平さんについてきただけやから」と笑って答える人だ。
そこだけ見ると、非常に薄っぺらい、行動原理に何があるのか理解しがたい、気味の悪い女性に見えなくもない。
しかし、そこまで考えて、ふと浮かんだ女性がいる。
岡本敏子さんは、著書『恋愛芸術家』で、自身のスタンスや恋愛観について次のように語っておられた。(以下敬称略)
もともと、わたくしには「人にどう思われるだろう」とかね、「こう思われたい」という気が全然ないのね。
ま、性格だからしょうがないわね。
「自分のできることだけやるしかない」ってほんとうに思ってるわけね。
やれないならやれないで、そうなんだから仕方がないじゃない?
仕事でも、恋愛でも。
それが私の哲学。
『恋愛芸術家』p.97
わたくしは岡本太郎さんのことがだーい好きっていう、ただそれだけで満たされてた。
あのまんまの太郎さん、その全体が好きなの。
だから、あの人がこうであったらよかったのに、なんていうことはぜんぜん考えたことがなかった。
あの人がどっかにいるだけでよかったの。
そういうふうに自分で満ち足りている。
それが恋よ。
満ち足りるっていうのは、自分だけの問題なの。
あふれる愛を人から与えてもらおうと思っても、それは無理。
お互いに、それぞれが自立していること。
自分は自分で立っていること。
そうでないと、いつまでたってもその恋愛はむなしいままね。
『恋愛芸術家』p.45~46
一生懸命にその人がやりたいと思ってることを聞いてあげるの。
それは言葉になってなくてもいいの。
たとえ気配であってもね、それに気づいて関心を持つことよ。
相手の方も実現はまだ不可能かもしれないけど、喋ってるうちにだんだんそれが現実に近づいていくのよ。
『恋愛芸術家』P.148
…萬平さんに対する福ちゃんの態度と似てません?
岡本太郎の素晴らしさ、その作品の素晴らしさを伝えることに尽力し続けた岡本敏子。
著書によれば、岡本太郎が遊郭に行くのにもついて行ったという。
知り合いの編集者などに「よく太郎さんについていけますね」「あれでは敏子さんがかわいそうだ」と言われることが何度もあったそうだ。
しかし岡本敏子は全く恨み言や愚痴がない。
パートナーに完全服従しているから文句が出なかったのではない。
一緒にいることが心底楽しくて嬉しくて仕方がなかったから、自分で、一緒にいることを選んだ。
自立した一人の人間として、望んでそうした。
もし何かがっかりするようなことが起きたとしても、後からごちゃごちゃ文句を言いたくない潔い性格と、覚悟を持っている人だった。
朗らかに笑っている方が自分も気持ちが良いから。
そして何より、パートナーが素晴らしい人であることを信じているから。
これはね、ある奥様から聞いたんだけど、太郎さんがね、わたくしのことを「平野くんはね、朝起こすと、必ずにっこりといい顔で笑うんだよ。たいがいの人間には疲れていたり、不機嫌なときもあるのに、彼女はね、毎朝必ずにっこりいい顔で笑うんだよ。あれはいいなあ」って言ってたんですって。
亡くなってから聞いたの。
そんなこと言ってるなんて夢にも思わなかった。
そりゃあ、笑顔にもなりますよ。
わたくしは、朝起きて、太郎さんの顔を見られることがうれしいんだもの。
『恋愛芸術家』p.98
常に笑顔で誰かを迎えると言うことは、自分で自分の機嫌を取り続けることだ。
自分の機嫌を取るために他者を利用しない。
それは精神的に完全に独立している人ではないとなしえない。
福子もまた、自然に、自分が相手のありようと一体化するような愛し方をする女性だった。最初から相手の内側に没入しているので、そこに葛藤は無い。
「あなたの情熱は あたしの自慢で誇りで覚悟なの」
相手の情熱を自分のものとする愛。
自他の境界線についての議論すらぶっ飛ばして、自ら望んで相手と融合しにいく愛。
もらい泣き、もらい笑い、もらい怒り、もらい恥じもむしろ望むところ。
まさに、ドリカムの主題歌の通りである。
「自他の境界線はきちんと引くべき!男と女ならなおさら!」
「女性も主張すべき!男に付き従うな!」
「夫の夢を叶えて喜ぶようなあり方は自由な女性の生き方ではない!」
表面だけ見て、そう批判する人もいるだろう。
そうではない。
福子も、岡本敏子さんも、冒頭で述べた弓子夫人も、
彼女たちは自分で、パートナーが行く道なき道を伴走することを選んだ。
「自由な生き方」とは、誇りや覚悟を持って自分の生きる道を自分で選ぶことだ。
「妻という立場」「専業主婦という仕事」を主体的に選び取ることも勿論ある。
「自由な生き方をしている女性は、会社勤めか起業をしていて、夫に寄り添ったりしない人」などと決めつけることの方がよっぽど不自由だ。
周りの人が何を考えているか、世の中がどう変化しているか、福ちゃんは昔からずっとよく見ているのよね。だからいろんなことに気づく。周りの人に影響を与える。専業主婦でも社会と繋がることは可能だと思わされた…というか、主婦こそ社会を支えている、と胸を張りたい。#まんぷく
— りこ (@front_rico) March 28, 2019
一見、前近代的な専業主婦。
実際は、稀有な愛を持ってパートナーを見守る、主体的で自由な女性。
福子は、なんとわかりにくい、尖ったヒロインだろうか。
時代遅れなのではなく、福子が我々の更に先を歩いているような気さえしてくる。
2.『まんぷく』のマッドネス
近年、『妻は他人 だから夫婦は面白い』という漫画がバズった。
パートナーとはいえ他人なのだから全て自分の思い通りになると思うこと自体がそもそもおかしい、
自分の意思はきちんと伝えなければ伝わらない、
というようなことを、ゆるやかなタッチで描いたエッセイ漫画だ。
確かに、期待や欲が過剰に湧いてしまい、パートナーに対して、支配しよう/依存しようと躍起になってしまう人には、この考え方を持つことが最適だろう。
だが世の中にはこの考え方が必要のない人がいる。
福子や前述の岡本敏子さんのような人だ。
そもそも、ごく一般的なパートナー関係は、もっと揺らぎの多いものだ。
夫婦なので「もう無理だこんな奴ぶっ転がす」ってところから「全てを赦そう…君は最高のパートナー…」って持ち直したり、また「もう無理だ別れる実家に帰らせていただきます」ってなったり「サイコー、愛してる!」ってなったりしているので、ツイートもそうなりがち
— 丸原 (@maruharra) March 24, 2019
精神的に独立している人であっても、一緒に生活サイクルを潤滑に回していく相手としてパートナーを見た時に、つい不満が出てしまうことはある。
だが、福子は萬平に対する引っかかりが出そうなところを「信じること」で埋めていた。
小手先のパートナーシップ論ではない。
相手を健やかに伸ばすために、全てを肯定し、見守り続けていた。
そのやり方は、福子の性根がまっすぐで、精神的に独立しているからできることだ。
もし「パートナーに依存したい欲」の強い人が、福子と同じように、引っかかりを「信じること」で埋めようとしたら、決して上手くいかないだろう。
本当ならば直すべきことにまで目をつぶってしまい、悪い意味での共依存関係へズブズブと嵌っていってしまうかもしれない。
パートナーに自他の境界の無い愛を注ぎ、ひたすら信じて見守る。
それが健やかに成立する関係であることが、最大のマッドネスだった。
(もともとのマッドネスに賞賛のニュアンスはありませんが、ここでは褒めてます)
そう考えて振り返ってみれば、まんぷく夫妻は
「己の信じる道を爆走することに能力全振りの夫」と
「己の信じる道を爆走する夫を信じることに能力全振りの妻」
が組み合わさった夫婦なのだとわかる。
タイトル通り、二人で一つになる夫婦である。
二人は傍若無人だったのではない。
己の信じる道を歩み続けることを何よりも大切にしていて、基本的に「己の信じる道を行く自分たちの背中を見せること」でしか語れない夫婦なのだ。
だから、子供たちのいじめ問題にも優しくケアしには来ない。
むしろ、福ちゃんからしたら、どうやって己の信じる道を強く歩み続けるかを子供たちに熱く伝えたかった場面だろう。(実際そうしたし)
あらゆる問題を「己の信じる道を行く自分たちの背中を見せること」で解決しようとしてきた萬平と、それに伴走する福子は、部分的なエピソードだけを切り出して見れば、大雑把で、自分のことにばかり夢中で、優しさのない人に見える。その見方はその見方で、合ってる。
だが、『まんぷく』の制作チームは、福田靖先生は、この二人を敢えてこういう描き方にした。(おそらく、誤解を受けることも承知の上でだろう)
「LOVE LOVE LOVE」や「やさしいキスをして」のような楽曲を書けるドリカムが、『まんぷく』の主題歌をマーチで書いた。
つまり、このドラマは、
福子の、萬平の、二人の、「道の歩き方」を描いた話だったのだ。
たとえ、周りの人からどのような罵詈雑言を投げつけられ、理解されず、残酷な扱いを受けたとしても、二人は二人の信じる道を突き進む。どこまでも。果てしなく。
私が『マッドマックス〜怒りのデス・ロード〜』になぞらえて、「マッドぷく~即席麺ロード~」とこの作品を呼んでしまうのは、この辺りのところからだ。
マッドネスな同志愛で結ばれた二人は、最終週までスピードを緩めることなく突っ込んでいった。
福子の萬平に対するクレイジーラブを表すための演出はひどくコミカルでぶっ飛んでいたので、視聴者も好き嫌いが分かれただろう。
(販促のために、変装してスーパーでバレバレの演技をしたり、カップヌードルを食べながら奥様方の井戸端会議に突撃してドン引きされたり、後半に行けば行くほど福ちゃんのクレイジーラブは暴走していたw 安藤サクラさんのコメディエンヌとしての魅力全開でもあった)
しかし、福子は最後まで一貫して、萬平のやる気を煽り、アイデアを膨らますヒントを与え、萬平のやりたいようにとことんやらせて、その自由さを裏から支える存在だった。
萬平の狂気を健やかに増幅し続ける福子。
だから、世の中の評価は全く関係なく、萬平にとってはただ一人のミューズであり続けた。
この二人の素敵なところは、萬平もまた、福子の素晴らしさをよくわかっていて、
「福子のおかげだ!」と、萬平が何度も何度も感謝の言葉を福子に述べるところだ。
同志愛という点で、きちんとお互いを見つめ合っている二人として描かれた。
萬平さんは素晴らしい発明がしたい一心で、福子は萬平さんを応援したい一心だったけど、結局、2人が作ったものは「ああ…赤子の離乳食は食べさせたけど、この後自分の分だけご飯作るの無理…ポットでお湯沸かすしかできない…」みたいなお母さんをたくさん救ったのかもしれないよなあ…(具体的)
— なな@ドラマ鑑賞アカ (@Sleepingnana) March 29, 2019
世界を変えた発明品の後ろに、一人の女神がいた。
それは、「世界が気づかなくても、誰もが誰かの女神になれる」という、制作側から視聴者へのメッセージとも受け取れる。
安藤サクラの演技力を無駄にしている、と批判する意見もあった。
どうだろうか。
私には、むしろ、安藤サクラにしか演じられない、狂気の愛の女神だったように思える。
愛くるしい、可愛らしい、
3.福ちゃんと『まんぷく』がもたらしたもの
妙ちきりんな人でもよく側に寄って見てみて、変わったところがあったらね、そこをつついてごらんなさい。
そこを伸ばしていくと案外面白い木になったりするのよ。
その人の現状を「これが最終形」だと思って見ちゃうとつまんないわね。
『恋愛芸術家』p.142
よく見ればほんとうにひとりひとりが面白いのよ。
「面白い人がまわりにいない」なんて言ってるのは、見てるほうの怠慢かもしれないわよ。
『恋愛芸術家』p.144~145
「おもしろい人生など存在しない。人生をおもしろくする人間が存在するだけや」
パーラー白薔薇のマスターがそう言い、妻のしのぶは福子こそがそういう人間だと言った。
福子は萬平についてきただけだと答える。
それは本当にその通りなのだろう。福子はただ、萬平の素晴らしさを無邪気に信じていただけなのだから。頑張って無理をして萬平を信じていたわけではない。心から面白い、素晴らしいと思っていたから、自然に信じ続けられたのだ。
そこで私はふと考え込んでしまう。
果たして、私たちは、人生を面白くする側の人間になれていただろうか?
折しも、100作目の朝ドラ『なつぞら』の前に、100作分の振り返り番組が放送されている。
半世紀を超える歴史を持つ朝ドラという枠。
その長い歴史は、伝統芸能のように、朝ドラならではの型やお約束を作り上げた。
同時に、常にその型からはみ出ようとする実験の場にもなった。
各作品の「はみ出し方」は、いつも議論や諍いの的になった。
本当は、どの朝ドラでも賛否の議論や好き嫌いの諍いはあったのだ。
しかし、『半分、青い。』で脚本家自らが、自分の気にくわない意見を晒しあげて攻撃したために、SNSにおける制作側と視聴者の信頼関係を徹底的に、ぶち壊してしまった。
SNSで、ある作品の感想を、嫌いだったら嫌いといくら書いても自由だ。
それなのに、いつ制作側の人間に吊るし上げられるかとヒヤヒヤする数ヶ月間を過ごさなければいけなかったのが前作だった。その期間を経て、まるでDV被害者のようになってしまう朝ドラファンもいれば、自分自身が非難する側の人になってしまう朝ドラファンもいた。
私たちは朝ドラの歩き方を完全に見失っていた。
「我々は背中で信念を語ります!」という骨太な夫婦の「マッドぷく~即席麺ロード~」……じゃなかった、『まんぷく』は、なかなかのクレイジーラブストーリーだった。道を見失った朝ドラファンには、手厳しいところもある作品だった。
好きな演出ではなかった、夫婦のありかたに納得できなかったというご意見もごもっともである。
ただ、湧き上がってくる不信感をグッとこらえて、もう一度制作者を信じて観続けた結果、楽しい最終週へ辿り着けた朝ドラファンのかたがたくさんおられた。
おとぎ話のように可愛らしく構成・演出がなされているけれど、時にはそれが茶番劇に見えたり。
脚本家の作家性が存分に出るから、時には自分と合わない部分を強烈に見てしまって、視聴が辛かったり。
そんな日もありつつ、それでも、制作者を信じて半年観続けたら、何がしかの真実が胸に迫ってくる。登場人物はまるで友人や隣人のように感じられ、離れがたい気持ちになる。
朝ドラを観るとは、そういうことの全てを楽しむ時間ではなかったか。
朝ドラという道の歩き方を忘れてしまった私たちの前に現れたのが、福ちゃんだった。
「あの朝ドラが好きな人は森で、この朝ドラが好きな人はタタラ場で暮らそう。」
(CVアシタカ)
そんなスタンスで良いのに、今でも越境して、感想の焼き討ちに来る人は後を絶たない。
でも歩いて行こう。私は私の「好き」を信じて、道を行こう。
誰に何を言われても。誰も見てくれなくても。
にこやかに、かろやかに。
歴史には残らなくても、時代に逆行していると言われても、
信じる道をトゥラッタッタと。
福ちゃんの背中が、私たちにそう教えてくれる。
(そう思って『まんぷく』を見返すと、なかなか示唆に富んだオープニング映像だね!福ちゃんの背中でキメるラストなんだもの)
(追記)
ところで、福子の友人が「敏子」と「ハナ」なのは偶然なのかなあ?
「パートナーを支え続けた女性」「敏子」「ハナ」というキーワードが揃うと、
前述の岡本敏子さんと、田中角栄氏の妻・田中はなさんを思い出してしまう……。どちらも、日本の歴史の変革をパートナーを通して支えた女性である。
過去の朝ドラとも多数リンクするような、小ネタ満載の『まんぷく』だったから、つい穿って見てしまうよ!
「半分、青い。」を直してみた。 〜私は北川悦吏子のドラマが好きだった〜
…なんやねん、あれ。
1.仕事への敬意や真摯さがない
2.愛情に誠意が感じられない。
3.他者の痛みの取り扱いが雑。
震災描写にあまちゃんと比較しているのを見かけるが、クドカンはあまちゃんでの震災描写を次のように語っていて面白い。#あまちゃん#半分青い pic.twitter.com/ER7NyGN4s6
— いまあつ (@imaatsu1974) September 24, 2018
「ずっと北川悦吏子ドラマを観てきた私が勝手に期待していた『半分、青い。』」
「半分、青い。は嫌いでも、