その道の、歩き方〜まんぷくは何が「マッドぷく」だったのか〜

はじめに

イチロー選手の引退は、多くの人に衝撃を与えた。

野球と真摯に向き合い、限界に挑戦し、己の信じる道を歩み続けたイチロー選手を讃える声が沢山上がった。

しかし一方で、妻である弓子さんのありようを取り上げて、批判する向きもあった。

 

 

私はこの意見を見た時に「あれ?見たことあるな?」と思ってしまった。

「……弓子さん、福ちゃんと同じこと言われてないか?」

 

2019年下半期朝ドラ『まんぷく』のヒロイン、福子。愛称は福ちゃん。

発明家の夫・萬平を生涯支え続けた女性。

夫に付き従ってばかりの、主体性の無い、つまらない女性。そんな感想も出ていた。

 

 

2/15、私はこんなことをつぶやいた。

果たして、福ちゃんとはどういう女性だったのか?

まんぷく』の何がマッドだったのか?

福ちゃんは、『まんぷく』は、視聴者に何をもたらしたのだろうか?

 

最終回を迎える今、書きとめておきたい。

 

 

 

まんぷく』夫妻の印象の変化

  

不器用な理系っぽい男の人とおっとりした真面目な女性が恋に落ち、

世界的な偉業を成功させ、数々の困難を支え合って乗り越え、生きていく話。

まんぷく』開始当初、そんな、感動的でほんわかな夫婦の話を期待していた人がほとんどだったのではないだろうか。

 

だが雲行きはだんだん怪しくなっていく。

仲間の裏切り、投獄複数回、戦争、財産差し押さえ、家族間のトラブルetc……

新しい発明にチャレンジをしてはトラブルに見舞われ、失敗し、しかしまた懲りずに新たなアイデアを思いついては燃える萬平。

そんな萬平を福子は決して怒らない。

いつだって

「萬平さんならできます!」

とニッコリ笑う。

「エーーーー!なんでそこで夫を励ませるの!?許せるの!?」と思われたかたもいただろう。

(むしろ、どういうわけなの!?私は武士の娘なのよ!?できません!とドラマの中で憤るのはいつもお母さんの鈴さんでした。面倒くさい時も多々あったけど、時には我々の心の声を代弁してくれてありがとうブシムス)

 

「まあ、福ちゃんは最初から異様に受容能力の高い人として描かれてるから、そんな感じなのかもな……」と思って観ていた私もつまずきかけたエピソードがある。

それは、子供たちのいじめ問題だ。

実質無職の状態で、わけのわからないラーメンを開発している発明家の父がいることを理由に、萬平と福子の子供たちがいじめに遭ってしまう。

泣きながら「ラーメン作るのやめて、いやや」と訴える子供たちを福子は一喝する。

「いややない!」

「お父さんは誰も考えつかなかった世の中の役に立つものを作ってみんなを笑顔にする発明家やの」

「あなたたちをばかにした友達も お父さんが作ったラーメンをおいしいって食べて 笑顔になってくれるようになります」

 TLも賛否両論。

「子供のことを思いやっていない」「それがまんぷく夫妻の哲学なんだ」「いじめのことを頑張って告白したのに」「むしろ根掘り葉掘り聞かない態度が良い」「ひどい親だ」「シビアに描きたいところだったんだ」

このあたりで釈然としない気持ちが限界に達し、『まんぷく』から離れてしまったかたもおられた

 

 

ええええ。福ちゃんってこんな人だったっけか?

 

 

1.福ちゃんという女性のこと

 

萬平は、発明に能力と情熱を全振りしてしまったような人で、社会性も社交性も優しさも礼儀もどこかすこんと抜けている。

研究者肌であるだけではなく、発明家らしく、とことんバクチ打ち。今だったら「究極の理系男子」とか「ベンチャー企業社長あるある」とレッテルを貼られてしまいそうなタイプだ。

 

それに対する福子は、萬平に常に「あなたならできます」と言い続け、萬平が成功するためには労を惜しまず、萬平を責めることも愚痴ることもなく、そのありようを褒められても「私は萬平さんについてきただけやから」と笑って答える人だ。

そこだけ見ると、非常に薄っぺらい、行動原理に何があるのか理解しがたい、気味の悪い女性に見えなくもない。

 

しかし、そこまで考えて、ふと浮かんだ女性がいる。

 岡本太郎さんのパートナーだった、岡本敏子さんだ。

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岡本敏子さんは、著書『恋愛芸術家』で、自身のスタンスや恋愛観について次のように語っておられた。(以下敬称略)

 

もともと、わたくしには「人にどう思われるだろう」とかね、「こう思われたい」という気が全然ないのね。

ま、性格だからしょうがないわね。

「自分のできることだけやるしかない」ってほんとうに思ってるわけね。

やれないならやれないで、そうなんだから仕方がないじゃない?

仕事でも、恋愛でも。

それが私の哲学。

 

 『恋愛芸術家』p.97

 

わたくしは岡本太郎さんのことがだーい好きっていう、ただそれだけで満たされてた。

あのまんまの太郎さん、その全体が好きなの。

だから、あの人がこうであったらよかったのに、なんていうことはぜんぜん考えたことがなかった。

あの人がどっかにいるだけでよかったの。

 

そういうふうに自分で満ち足りている。

それが恋よ。

 

満ち足りるっていうのは、自分だけの問題なの。

あふれる愛を人から与えてもらおうと思っても、それは無理。

 

お互いに、それぞれが自立していること。

自分は自分で立っていること。

そうでないと、いつまでたってもその恋愛はむなしいままね。

 

『恋愛芸術家』p.45~46

 

一生懸命にその人がやりたいと思ってることを聞いてあげるの。

それは言葉になってなくてもいいの。

たとえ気配であってもね、それに気づいて関心を持つことよ。

 

相手の方も実現はまだ不可能かもしれないけど、喋ってるうちにだんだんそれが現実に近づいていくのよ。

『恋愛芸術家』P.148

 

…萬平さんに対する福ちゃんの態度と似てません? 

 

岡本太郎の素晴らしさ、その作品の素晴らしさを伝えることに尽力し続けた岡本敏子

著書によれば、岡本太郎遊郭に行くのにもついて行ったという。

知り合いの編集者などに「よく太郎さんについていけますね」「あれでは敏子さんがかわいそうだ」と言われることが何度もあったそうだ。

しかし岡本敏子は全く恨み言や愚痴がない。

パートナーに完全服従しているから文句が出なかったのではない。

一緒にいることが心底楽しくて嬉しくて仕方がなかったから、自分で、一緒にいることを選んだ。

自立した一人の人間として、望んでそうした。

もし何かがっかりするようなことが起きたとしても、後からごちゃごちゃ文句を言いたくない潔い性格と、覚悟を持っている人だった。

朗らかに笑っている方が自分も気持ちが良いから。

そして何より、パートナーが素晴らしい人であることを信じているから。

 

これはね、ある奥様から聞いたんだけど、太郎さんがね、わたくしのことを「平野くんはね、朝起こすと、必ずにっこりといい顔で笑うんだよ。たいがいの人間には疲れていたり、不機嫌なときもあるのに、彼女はね、毎朝必ずにっこりいい顔で笑うんだよ。あれはいいなあ」って言ってたんですって。

亡くなってから聞いたの。

そんなこと言ってるなんて夢にも思わなかった。

そりゃあ、笑顔にもなりますよ。

わたくしは、朝起きて、太郎さんの顔を見られることがうれしいんだもの。

 

『恋愛芸術家』p.98

 

 

 

常に笑顔で誰かを迎えると言うことは、自分で自分の機嫌を取り続けることだ。

自分の機嫌を取るために他者を利用しない。

それは精神的に完全に独立している人ではないとなしえない。

 

 

福子もまた、自然に、自分が相手のありようと一体化するような愛し方をする女性だった。最初から相手の内側に没入しているので、そこに葛藤は無い。

 「あなたの情熱は あたしの自慢で誇りで覚悟なの」

相手の情熱を自分のものとする愛。

自他の境界線についての議論すらぶっ飛ばして、自ら望んで相手と融合しにいく愛。

もらい泣き、もらい笑い、もらい怒り、もらい恥じもむしろ望むところ。

まさに、ドリカムの主題歌の通りである。

 

「自他の境界線はきちんと引くべき!男と女ならなおさら!」

「女性も主張すべき!男に付き従うな!」

「夫の夢を叶えて喜ぶようなあり方は自由な女性の生き方ではない!」

表面だけ見て、そう批判する人もいるだろう。

そうではない。

福子も、岡本敏子さんも、冒頭で述べた弓子夫人も、

彼女たちは自分で、パートナーが行く道なき道を伴走することを選んだ。

 

「自由な生き方」とは、誇りや覚悟を持って自分の生きる道を自分で選ぶことだ。

「妻という立場」「専業主婦という仕事」を主体的に選び取ることも勿論ある。

「自由な生き方をしている女性は、会社勤めか起業をしていて、夫に寄り添ったりしない人」などと決めつけることの方がよっぽど不自由だ。

 

 

一見、前近代的な専業主婦。

実際は、稀有な愛を持ってパートナーを見守る、主体的で自由な女性。

福子は、なんとわかりにくい、尖ったヒロインだろうか。

時代遅れなのではなく、福子が我々の更に先を歩いているような気さえしてくる。

 

 

 

2.『まんぷく』のマッドネス

 

近年、『妻は他人 だから夫婦は面白い』という漫画がバズった。

conobie.jp

パートナーとはいえ他人なのだから全て自分の思い通りになると思うこと自体がそもそもおかしい、

自分の意思はきちんと伝えなければ伝わらない、

というようなことを、ゆるやかなタッチで描いたエッセイ漫画だ。

 

確かに、期待や欲が過剰に湧いてしまい、パートナーに対して、支配しよう/依存しようと躍起になってしまう人には、この考え方を持つことが最適だろう。

だが世の中にはこの考え方が必要のない人がいる。

福子や前述の岡本敏子さんのような人だ。

 

 

そもそも、ごく一般的なパートナー関係は、もっと揺らぎの多いものだ。

 

 

精神的に独立している人であっても、一緒に生活サイクルを潤滑に回していく相手としてパートナーを見た時に、つい不満が出てしまうことはある。

 

 

だが、福子は萬平に対する引っかかりが出そうなところを「信じること」で埋めていた。

小手先のパートナーシップ論ではない。

相手を健やかに伸ばすために、全てを肯定し、見守り続けていた。

そのやり方は、福子の性根がまっすぐで、精神的に独立しているからできることだ。

もし「パートナーに依存したい欲」の強い人が、福子と同じように、引っかかりを「信じること」で埋めようとしたら、決して上手くいかないだろう。

本当ならば直すべきことにまで目をつぶってしまい、悪い意味での共依存関係へズブズブと嵌っていってしまうかもしれない。

パートナーに自他の境界の無い愛を注ぎ、ひたすら信じて見守る。

それが健やかに成立する関係であることが、最大のマッドネスだった。

(もともとのマッドネスに賞賛のニュアンスはありませんが、ここでは褒めてます)

 

 

そう考えて振り返ってみれば、まんぷく夫妻は

「己の信じる道を爆走することに能力全振りの夫」と

「己の信じる道を爆走する夫を信じることに能力全振りの妻」

が組み合わさった夫婦なのだとわかる。

タイトル通り、二人で一つになる夫婦である。

 

二人は傍若無人だったのではない。

己の信じる道を歩み続けることを何よりも大切にしていて、基本的に「己の信じる道を行く自分たちの背中を見せること」でしか語れない夫婦なのだ。

だから、子供たちのいじめ問題にも優しくケアしには来ない。

むしろ、福ちゃんからしたら、どうやって己の信じる道を強く歩み続けるかを子供たちに熱く伝えたかった場面だろう。(実際そうしたし)

 

あらゆる問題を「己の信じる道を行く自分たちの背中を見せること」で解決しようとしてきた萬平と、それに伴走する福子は、部分的なエピソードだけを切り出して見れば、大雑把で、自分のことにばかり夢中で、優しさのない人に見える。その見方はその見方で、合ってる。

 

だが、『まんぷく』の制作チームは、福田靖先生は、この二人を敢えてこういう描き方にした。(おそらく、誤解を受けることも承知の上でだろう)

「LOVE LOVE LOVE」や「やさしいキスをして」のような楽曲を書けるドリカムが、『まんぷく』の主題歌をマーチで書いた。

 

つまり、このドラマは、

福子の、萬平の、二人の、「道の歩き方」を描いた話だったのだ。

 

たとえ、周りの人からどのような罵詈雑言を投げつけられ、理解されず、残酷な扱いを受けたとしても、二人は二人の信じる道を突き進む。どこまでも。果てしなく。

私が『マッドマックス〜怒りのデス・ロード〜』になぞらえて、「マッドぷく~即席麺ロード~」とこの作品を呼んでしまうのは、この辺りのところからだ。

 

 

 

マッドネスな同志愛で結ばれた二人は、最終週までスピードを緩めることなく突っ込んでいった。

 

福子の萬平に対するクレイジーラブを表すための演出はひどくコミカルでぶっ飛んでいたので、視聴者も好き嫌いが分かれただろう。

(販促のために、変装してスーパーでバレバレの演技をしたり、カップヌードルを食べながら奥様方の井戸端会議に突撃してドン引きされたり、後半に行けば行くほど福ちゃんのクレイジーラブは暴走していたw 安藤サクラさんのコメディエンヌとしての魅力全開でもあった)

しかし、福子は最後まで一貫して、萬平のやる気を煽り、アイデアを膨らますヒントを与え、萬平のやりたいようにとことんやらせて、その自由さを裏から支える存在だった。

萬平の狂気を健やかに増幅し続ける福子。

だから、世の中の評価は全く関係なく、萬平にとってはただ一人のミューズであり続けた。

この二人の素敵なところは、萬平もまた、福子の素晴らしさをよくわかっていて、

「福子のおかげだ!」と、萬平が何度も何度も感謝の言葉を福子に述べるところだ。

同志愛という点で、きちんとお互いを見つめ合っている二人として描かれた。

 

  

世界を変えた発明品の後ろに、一人の女神がいた。

それは、「世界が気づかなくても、誰もが誰かの女神になれる」という、制作側から視聴者へのメッセージとも受け取れる。

安藤サクラの演技力を無駄にしている、と批判する意見もあった。

どうだろうか。

私には、むしろ、安藤サクラにしか演じられない、狂気の愛の女神だったように思える。

愛くるしい、可愛らしい、どこまでもまっすぐな狂気で健やかに生きた二人。だから安藤サクラで、だから長谷川博己でなければいけないのだ。

 

 

 

3.福ちゃんと『まんぷく』がもたらしたもの

 

妙ちきりんな人でもよく側に寄って見てみて、変わったところがあったらね、そこをつついてごらんなさい。

そこを伸ばしていくと案外面白い木になったりするのよ。

その人の現状を「これが最終形」だと思って見ちゃうとつまんないわね。

 

『恋愛芸術家』p.142

 

よく見ればほんとうにひとりひとりが面白いのよ。

「面白い人がまわりにいない」なんて言ってるのは、見てるほうの怠慢かもしれないわよ。

 

『恋愛芸術家』p.144~145 

 

おもしろい人生など存在しない。人生をおもしろくする人間が存在するだけや

パーラー白薔薇のマスターがそう言い、妻のしのぶは福子こそがそういう人間だと言った。

福子は萬平についてきただけだと答える。

それは本当にその通りなのだろう。福子はただ、萬平の素晴らしさを無邪気に信じていただけなのだから。頑張って無理をして萬平を信じていたわけではない。心から面白い、素晴らしいと思っていたから、自然に信じ続けられたのだ。

 

 

そこで私はふと考え込んでしまう。

果たして、私たちは、人生を面白くする側の人間になれていただろうか?

 

 

折しも、100作目の朝ドラ『なつぞら』の前に、100作分の振り返り番組が放送されている。

半世紀を超える歴史を持つ朝ドラという枠。

その長い歴史は、伝統芸能のように、朝ドラならではの型やお約束を作り上げた。

同時に、常にその型からはみ出ようとする実験の場にもなった。

各作品の「はみ出し方」は、いつも議論や諍いの的になった。

本当は、どの朝ドラでも賛否の議論や好き嫌いの諍いはあったのだ。

しかし、『半分、青い。』で脚本家自らが、自分の気にくわない意見を晒しあげて攻撃したために、SNSにおける制作側と視聴者の信頼関係を徹底的に、ぶち壊してしまった。

SNSで、ある作品の感想を、嫌いだったら嫌いといくら書いても自由だ。

それなのに、いつ制作側の人間に吊るし上げられるかとヒヤヒヤする数ヶ月間を過ごさなければいけなかったのが前作だった。その期間を経て、まるでDV被害者のようになってしまう朝ドラファンもいれば、自分自身が非難する側の人になってしまう朝ドラファンもいた。

 

私たちは朝ドラの歩き方を完全に見失っていた。

 

「我々は背中で信念を語ります!」という骨太な夫婦の「マッドぷく~即席麺ロード~」……じゃなかった、『まんぷく』は、なかなかのクレイジーラブストーリーだった。道を見失った朝ドラファンには、手厳しいところもある作品だった。

好きな演出ではなかった、夫婦のありかたに納得できなかったというご意見もごもっともである。

ただ、湧き上がってくる不信感をグッとこらえて、もう一度制作者を信じて観続けた結果、楽しい最終週へ辿り着けた朝ドラファンのかたがたくさんおられた。

 

 

おとぎ話のように可愛らしく構成・演出がなされているけれど、時にはそれが茶番劇に見えたり。

脚本家の作家性が存分に出るから、時には自分と合わない部分を強烈に見てしまって、視聴が辛かったり。

そんな日もありつつ、それでも、制作者を信じて半年観続けたら、何がしかの真実が胸に迫ってくる。登場人物はまるで友人や隣人のように感じられ、離れがたい気持ちになる。

朝ドラを観るとは、そういうことの全てを楽しむ時間ではなかったか。

 

 

朝ドラという道の歩き方を忘れてしまった私たちの前に現れたのが、福ちゃんだった。

 

 

「あの朝ドラが好きな人は森で、この朝ドラが好きな人はタタラ場で暮らそう。」

(CVアシタカ)

そんなスタンスで良いのに、今でも越境して、感想の焼き討ちに来る人は後を絶たない。

 

 

でも歩いて行こう。私は私の「好き」を信じて、道を行こう。

誰に何を言われても。誰も見てくれなくても。

にこやかに、かろやかに。

歴史には残らなくても、時代に逆行していると言われても、

信じる道をトゥラッタッタと。

 

 

福ちゃんの背中が、私たちにそう教えてくれる。

 

 

(そう思って『まんぷく』を見返すと、なかなか示唆に富んだオープニング映像だね!福ちゃんの背中でキメるラストなんだもの)

 

 

 

(追記)

ところで、福子の友人が「敏子」と「ハナ」なのは偶然なのかなあ?

「パートナーを支え続けた女性」「敏子」「ハナ」というキーワードが揃うと、

前述の岡本敏子さんと、田中角栄氏の妻・田中はなさんを思い出してしまう……。どちらも、日本の歴史の変革をパートナーを通して支えた女性である。

過去の朝ドラとも多数リンクするような、小ネタ満載の『まんぷく』だったから、つい穿って見てしまうよ!